夢って遠いね

ほっと一息つきたいあなたに、ささやかな憩いの時間を。

野口剛「貴女が遠くへ行く 純子さんの幸せを願って」を読む

 好評をいただくも、なかなか私のエネルギーが必要になるためにゆっくりな詩喰シリーズ、第六弾である。

 

 今回は、野口剛:http://twitter.com/nogutigoさんから作品の指定を受けたので、それを喰らっていこうと思う。

 彼は一途な人だ。そして文学に真摯で、夢に向かって積極的な人だ。

 彼の世界観に、そういった彼のあり方がどう反映されているか、見ていきたい。

 

 タイトルは「貴女が遠くへ行く 純子さんの幸せを願って」だ。

 「純子さん」は、彼が一途に慕っている人だ。その方は日々の彼の言葉の中にも見られ、ここでも実在の人物を指していると見る。

 ただ、私はその方について深くは知らない。作品の読み方として、予備知識を持って読むことも重要だが、私はそうしない読み方で読んでいこうと思う。

 彼と、彼女と。それだけで構わないだろう。

 なお、副題(実際には章題)として「手離したくなかった」とあり、ここでは彼女が彼の近くにいた存在で、今はそうでないと読み取ることを出発点にしてもらいたいという意図が伝わってくる。

 

さあ、見ていこう。

 

わかりあえなかったよね

いくら手を伸ばしても

闇から光の中へと救ってくれたのは貴女でした

 


どうしようもなかったあの頃

貴女は一瞬で天使に変わった

貴女がいつかは遠くへ行くことを

俺は知らずに

貴女の笑顔を見つめていた

 


貴女は幸せをつかんだんだね

俺は貴女を救えなかった

貴女は幸せになった

俺はまたひとりぼっちになるんだ

貴女と過ごした時間が俺の胸に突き刺さる

もう会えないんだ

俺は貴女を救えなかった

 


俺はまた闇をさまよう

今度は貴女が居ない

もう俺は二度と光を見ることができないんだ

貴女は遠くへ行く

ひとりぼっちの俺を残して

 


闇は冷たくて暗い

俺は貴女との思い出を抱いてさまよう

もう会えない

俺は貴女の笑顔にもう一度だけ見たかった

もう叶わないんだ

 


長い闇は俺の心をぐちゃぐちゃにした

いつしか貴女との思い出さえも消えて行く

もう一度だけ貴女に会いたかった

 


さよなら、純子さん

俺はまたひとりぼっちに戻るんだ

 

 

わかりあえなかったよね

いくら手を伸ばしても

闇から光の中へと救ってくれたのは貴女でした

 

 書き出しから、悲しい言葉が訴えてくる。これだけで、同じように分かり合えなかった誰かのことを想起した人もいるのではないだろうか。

 「いくら手を伸ばしても」とは、「俺」の側の行動だが、「貴女」もそうしてくれていたのかは分からない。

 一方的な恋慕のような切なさが、「救ってくれた」という恩義を感じる気持ちに見える。

 

 

どうしようもなかったあの頃

貴女は一瞬で天使に変わった

貴女がいつかは遠くへ行くことを

俺は知らずに

貴女の笑顔を見つめていた

 

 出逢いが語られる。最初から「天使」だったのではなく、「天使に変わった」という表現には、「どうしようもな」くて荒んでいた「俺」の心に入り込むような優しさを「貴女」が持っていて、心を開かせてくれたことを意味するのだろう。

 タイトルにもある「遠くへ行く」瞬間を「知ら」ない無垢な喜びが、優しい言葉の裏に見える。

 

 

貴女は幸せをつかんだんだね

俺は貴女を救えなかった

貴女は幸せになった

俺はまたひとりぼっちになるんだ

貴女と過ごした時間が俺の胸に突き刺さる

もう会えないんだ

俺は貴女を救えなかった

 

 「貴女」との別れは「幸せをつかんだ」ことで訪れる。女性の幸せとは何か、一つに限定することは避けるけれど、「天使」たる人を失って「俺」を「ひとりぼっち」にするようなことといえば、きっとそういうことなのだろう。

 二度も見える「俺は貴女を救えなかった」という言葉は、「闇から光の中へと救ってくれた」ことへの恩返しを出来なかったことへの強い悔しさから来るのだろう。「貴女」もまた、「俺」のようにどこかで苦しさを抱えていたようにうかがわせる。それを取り払うのは、まさに「救って」もらった「俺」の役割だ、そう自負していたからこそ、「俺」の悲しみは深い。

 「貴女と過ごした時間が俺の胸に突き刺さる」なんて、とんだ皮肉だ。「救ってくれ」る存在だった人との思い出が、今はかえって自分を傷付ける要因なのだから。

 

俺はまた闇をさまよう

今度は貴女が居ない

もう俺は二度と光を見ることができないんだ

貴女は遠くへ行く

ひとりぼっちの俺を残して

 

 「俺」は再び「どうしようもなかったあの頃」に戻ってしまう。しかも酷いことに、そこから「救ってくれた」人を失ったことは、「二度と光を見ることができない」、つまり救済の可能性の否定を意味する。

 最後の二行は、置いてけぼりを食らった男の寂しさが素直に吐露されている。それだけに、心に突き刺さる。

 

 

闇は冷たくて暗い

俺は貴女との思い出を抱いてさまよう

もう会えない

俺は貴女の笑顔にもう一度だけ見たかった

もう叶わないんだ

 

 「さまよう」場所は、陰鬱としている。「もう会えない」「もう叶わない」と分かってはいても、捨て去ることの出来ない「思い出」。よみがえる「貴女の笑顔」。

 その眼を閉じてしまわないのは、「抱いて」いる「思い出」が、それでも優しいからだろう。

 

 

長い闇は俺の心をぐちゃぐちゃにした

いつしか貴女との思い出さえも消えて行く

もう一度だけ貴女に会いたかった

 

 「俺」は優しい人だと思う。「心をぐちゃぐちゃにした」のは、「闇」のせいだという。「ひとりぼっちの俺を残して」みたいに、寂しい独白もこぼれはするけれど、直接「貴女」を責めるような言葉は、出てはこない。

 ただぼんやりと、時の流れの中に消えてしまう「思い出」が思われて、心は「貴女」を純粋に求める。

 「闇」の中では無理だと分かっているから、「会いたかった」と過去形で。

 

 

さよなら、純子さん

俺はまたひとりぼっちに戻るんだ

 

 ただ最後に、別れを告げる。

 タイトルの「純子さんの幸せを願って」を思えば、あるいはこの状態でいることが、結局は「貴女」の幸せに繋がる、という思考の帰結も感じられる。

 優しい人なりの、優しい答えだと思う。

 

 男の儚い恋心が、すっとしみ込んできた。そこに、野口さんの心根が重なることで、彼の表情まで読み取れるようだ。

 きっと今も、心の底で、「純子さん」の幸せを願って微笑んでいるだろう。そっと、胸元をぎゅっと握りながら。

「あなたのいるたった一つの世界」あとがき

あなたのいるたった一つの世界 | 小説投稿サイトのアルファポリス

 

※例によって長いです。

 


 無事書き終えることが出来た「あなたのいるたった一つの世界」。初出のタイトルを「君といない過去で」としていましたが、当初のプロットから大きくは動き方を変えていないにも関わらず、よく考えたらテーマが過去の世界じゃないじゃん、ってことに気付いたので、完成後に変更することにしました。

 


 本作を書くきっかけとなったのは、うちの賞に出してみなよとアルファポリスさんのTwitter支部のアカウントからお誘いを受けたことにあります。どのくらいの量の方に声をかけているかとかは知りませんが、折角だから乗っかってみるか、ということで一月の末に書きはじめることを決断しました。

 そこから何とか一ヶ月で、トータル80,689字の本作が仕上がりました。

 


 プロットは書かない、と決めていたこれまでの方針を少しだけ転換して、粗いプロットを用意するという新しい執筆スタイルで取り組んだ初めての作品でした。

 確かにプロットの効用は強いことを確認させられたのですが、それ通りに書こうとして苦しかった点などもあり、今後またやり方を工夫していきたいところです。

 


 さて、本作のテーマは、タイムスリップ×恋愛ということで、ほんのりSFほんのりファンタジーを織り交ぜた作品にしています。

 もう一つの過去は、冷めた恋に、再び熱を入れること。これまではゼロからのスタートが多かったので、付き合ってからの話を書いてみたいな、と思っていました。

 主人公の菜緒が戻るのは、自らの過ごしてきた時間ではなく、少しだけ違う別の過去。これは、そのままだと多分もう一回やり直しちゃうよな、ということでやめた、んだと思います。あんまり深く考えてなかったです。

 


 タイムスリップは、少し前にドラマの「JIN-仁-」を見て強い影響を受けたことが、取り組んだ最大の所以になります。主人公の南方仁が、病院の外に付けられた階段から転がり落ち、江戸時代にタイムスリップするという設定に着想を得て、タイムスリップには階段から落ちる要素を使いました。

 実際、作中にはそれを仄めかす記述を入れています。ただし、意図しない時間移動には階段を、最後に戻りたいと強く願った際には別の移動方法を、ということで、独自の設定も加えました。最後の感じとしては、マジックショーの感じでしょうか。

 


 また同じ顔で、同じような運命を辿ってきていても、それが同じ人物なのか、という命題については、「妖狐×僕SS」にヒントを得ました。これも、作中にその要素を仄めかしてあります。もっとも、これに関しては最初から着想を得たというよりは、書いている内にそういえば、と思い出した感じで、後から補強するのに使った感じです。

 


 あまりくどくどしたのが続いてもあれなので、ここで登場人物についての所感を挟みます。

 


・桜木菜緒

 ナオは音が好きなので、本作の主人公に付けることにしました。主人公の名前って物凄く大事で、私が好きになれないと書く気がしなくなります。

 今回は出来るだけ普通にいそう、という要素を強くしたかったこともあって、かつての同級生からもらいました。

 漢字は今回気にしていませんが、菜という字は女性の名前としてとても素敵ですよね。ついてる人が少し羨ましいです。

 苗字は少しだけかっこよくなるよう、桜というかっこよさをあげました。姓名のバランスというのでしょうか、一応フィクションなので、どこかでかっこよくもあってほしいんですよね。

 菜緒ちゃんは可愛いです。綺麗よりは可愛い、を意識しました。

 


・柳涼真

 俳優の竹内涼真からいただきました。最近「仮面ライダードライブ」を見たのがきっかけです。

 男性の名前を考えるのは苦手で、いつも同じようなものにしてしまう気がします。一部の名前はNGワードみたいになってますし、それは多分、自分の中での嫌な記憶と名前とが結び付いてるからなんでしょうね。その中で、今すごく素敵なイメージと結び付いている涼真という名前を、彼にあげました。

 苗字は「ホリミヤ」の柳君から。全体的にイケメンの名前をあげましたが、涼真はそこまでイケメン設定じゃないです。感覚で言うと、女子10人に聞いたら4〜5人が良いんじゃない? っていう程度ですね。

 


・綾先みどり

 平仮名にしたかったので。確か昔、ゆかりという名前のヒロインを出したことがあったような。平仮名にする時は、基本発想が同じなのかもしれません。

 苗字は「ホリミヤ」の綾﨑さんから。柳君からももらってるので、一字変えました。

 多分、何もしなかったらモテるタイプ。でも麗音ヲタを発症してるので、男が寄り付かないんです。

 


・まどか先生

 保健室の美人先生にいそうじゃない?

 とかいう感じで作りました。苗字は考えてたんだっけ。

 旦那がいます。当初の予定ではここまで活躍させるつもりはありませんでした。

 大人、って書くのが苦手です。でも、彼女はよく働いてくれた気がします。

 


・貴子

 多分苗字は考えてないはず。

 子がつく名前は時々出すんですが、不思議とみんな大切にしたく思う名前になります。

 たかこぉぉぉ! って叫ぶようなファンがつくと思います。見た目は私の好みにしてます(容姿はあまり書かないようにしてるので、これは全て心の中)。

 


・その他

 喋ったのは板橋凛夏と古沢君くらいでしょうか。あまり出すとみんなが薄くなるので、量の調節は今作はそこそこ上手く行ってたと思います。

 


・麗音(ゲスト出演)

 せっかくなので特別出演させました。「歌い手カレシと絵師なカノジョ」第三部以降の世界と繋がっています。麗音は世界の宝になっちゃってる感じです。特に物語の上では喋らせてませんが、心の中には夕葉がいっぱいです。

 


 だいたいこんな感じです。

 基本的に名前をもらったりしても、それ以上のモデルにはしてないです。

 


 ここからは、ところどころ出した諸要素について適当に記していこうと思います。

 


・スタヴァ

 ご存知スター○ックスをもじってます。正式名称はスターヴァーストです。

 


・複合施設

 ショッピングモールほどではないやつです。

 


・例の階段

 昔、神奈川に住んでた時、祖母の家の近くにものすごーーーい階段があって、それをふいに思い出したのがきっかけです。山の上から下りるのに使うものでしたが、子ども心に見たその光景は、なかなか凄まじいもので、今でも強く印象に残っています。

 


・カラオケ

 イメージとしてはジャ○カラです。私は滅多に行きません。

 


・文化祭

 九月に行う予定でした。作中では六〜八、十月しか描かれないので、文化祭がどうなったかは謎です。劇としてイメージした作品は特にないです。

 


・街

 基本的に舞台は神奈川だと思ってください。ここで言う街は、東京のことだと思います。

 


・通学

 菜緒も涼真も電車通学です。実は涼真とは家が近め、という感覚です。

 


 ざっと思いついたのはこれくらいでしょうか。

 私の作品は圧倒的に心理描写が多いので、あまり外のことを書かないのがいつも反省点なのですが、そろそろ取材やらなんやらもした方が良いのかな、なんて思います。

 


 もう既に次回作の構想も練っていたりはします。

 今度はもっと上手く書けたらいいね、って。

 


 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。

詩人が息を詰まらせた時に読むお話

 言葉ならある。

 けれど言葉以上の何物にもならない。

 そんな思いに頭を抱えたことはあるだろうか。

 あゝ、あるからこそ、あなたはここに来たのだ。

 少しばかり、そこに腰掛けて、私の話を聞いてほしい。

 きっとあなたがもう一度目を開ける時、ここに来た時の気持ちなんて、忘れているだろうから。

 


 なぜ筆は動かなくなったのか。

 動いたふうに見えても、すぐに大きなインク溜まりを作ってしまうのか。

 詩は、ある者にとっては汗、ある者にとっては涙、ある者にとっては血、いずれにせよ、他人のそれを使って、生み出すことは出来ない。

 苦悩を乗り越えようと無理に絞り出せば、もちろん幾らかは流れ出るだろう。小学校の時、まだ行けると捻った雑巾のように。

 けれど、泉を枯れ果てさせれば、それより先はない。

 無理の先には、絶筆がある。

 行き着く先は、「僕には才能がない」だ。

 私は親友をそれで失った。良き友であり、良き師であり、超えるべき人だった。けれど彼はもう、筆を持たない。

 なぜ筆は動かなくなったのか。

 出し切ってしまったのだ。

 その時心には、言葉と言葉とを繋げる、最も大切なものがない。

 主義や主張は依然としてあるだろう。思想も感情もあるだろう。

 だが、書きたいという衝動がない。それによって突き動かされ、集めた至極の言葉がない。

 今ある言葉だけで、残された気持ちだけをどうやって伝えられるだろう。

 もう、書いてしまったのだ。

 夕焼けの下、手を振った彼との別れも。

 風に舞う桜に乗せた、恩師への感謝も。

 寒空に伸ばした、夢を諦めない決意も。

 走り去る列車を追いかけた、あの日も。

 もう、書いてしまったのだ。

 詩を書くために生まれてきたと呼ばれる人がいる。けれどその人は、詩を書くために生まれてきたわけでは、もちろんない。

 伝えたいと思ったことがあって、それを詩という形にしてみせただけなのだ。

 彼がもし、次に伝えたいことを持たなければ、どうだろう。詩を書くために生まれてきたと思わせるような言葉が、よもや出るまい。

 


 詩人は、詩を書く以前に、生きなければならない。

 それまで生きた中で得たことを詩にしたら、また生きねば。

 もし、あなたの身の回りに、いくらでも詩を書くことが出来るような人がいるなら、その人はきっと、あなたよりよっぽど密な人生を送っているのだろう。

 


 言葉は増える。生きていれば、勝手に増えていく。

 こうして私の話を聞いているだけでも、一つや二つ、新しい言葉があなたの心に入るだろう。

 それだけで詩人が生まれるなら、詩人という職業は成り立たないだろう。

 詩が書けないという思いは、あなたが詩を書きはじめる前に戻ったというだけのこと。

 伝えたいもののために、必死に言葉を探し求めて、ああでもない、こうでもない、と道なき道をかき分けて進んだ時、あなたは今みたく、言葉を先に置かなかったはずだ。

 詩人は言葉の力を手に入れる。

 けれどその力が詩を生み続けることは、できない。

 


 誰もが詩人になれない理由は、そこにこそあると思う。

 


 海を見よう。

 歌を聞こう。

 彼女と手を繋ごう。

 積んだ本を消化しよう。

 芝生に寝転がって、雲を数えよう。

 友達を誘って、ハンバーガーを食べに行こう。

 見て、聴いて、触れて、嗅いで、味わおう。

 伝えたいことを、また手に入れてほしい。

 


 あなたには、詩を書く力は、もうあるのだから。

 間違っても、「才能がない」なんてことは、ないのだから。

 


 さあ、目を開いて。

 見つめるべきものに、もう一度、目を向けてみて。

微笑む

 いつからだったか、悲しいと言わなくなった。

 暑いとか、寒いとかと同じ、そう思うようになったから。口にしたところで、悲しみがなくなるわけでもない。

 うだるような熱さのもと、どうにかしてくれと言われたところで、自分も耐えているんだ、といった顔をされてしまう。それと同じで、悲しいと主張するのは、野暮な真似に過ぎない。

 だから、いつも非現実でそれを薄めてきた。

 フィクションの力は偉大で、それを数滴垂らすだけで、悲しみはずっと薄まった。

 でも、悲しみは常に垂れてくる。

 ぴちょん、ぴちょん、とひたすらに。

 そうして気が付けば、非現実の力ではどうしようもない事態にまで来ていた。

 どれだけ垂らそうとも、一向に薄まることのない悲しみは、いよいよもって悍ましさを感じさせる。

 なのに、鏡の向こうには、微笑みがある。

 知っていた。

 どうせこの悲しみもまた、乗り越えられてしまうと。

 悲しみの渦中にあって、苦しみ続けていると、いずれは慣れてしまうから。

 悲しみでさえ、鮮度がある。

 だからじっと、耐え忍ぶ。

 きっとそのうち、マシになるよ。

雪下まほろを読む

 試食のつもりで詩を喰ってみる、というのが「藤夜アキの詩喰」のコンセプト、と後付け理論を語ってみる。これが試食ならとうの昔にスーパー出禁だと思うが。

 

 そんな第5回に、私の食卓に料理を供してくれたのは、雪下 まほろ(ゆきしも まほろ) (@t8x9jxgda279dt1) | Twitterさんだ。

 

私の毒を呑み込んで頂けないでしょうか。

 という依頼の文句からして、詩人様だな、と思わされる。今回でコロッと逝ってしまうかもしれない。気が付けば、三途の川でファンをしていたら、そういうことだと思ってほしい。

 

 美しい愛を詩う詩人。簡潔にそう言ってしまうべきだろう。彼女の詩に胸を打たれる読者の数は、恋をする人の数だと思う。

 

 さあ、喰うとしようか。

 

 

 灼けるような愛。まずは一言。

 「して下さい」→「しまわぬように」の流れを三組記し、前半の空気を作る。倒置を使い、印象的に書いていくのがポイントだと思う。

 一つ目の願いは、「零れて蒸発してしまわぬように」「この愛を唇で塞」ぐこと。「蒸発」は、液体が気化することを指すが、それはやはり、恋の熱によってであろう。深く抱いた恋情は、「塞」がれなければ「零れて」しまう。もしそうなってしまえば、「貴方」に焦がれる「私」の熱によって、その想いは「蒸発」してしまう。僅かでも失いたくない、「私」の恋心が生んだ、悲痛な訴え。さらにその先を思うなら、「零れ」るほどの愛は、「塞」いでくれた口を通じて、「貴方」にも流れていくだろう。

 

 二つ目の願いは、「離れて何処かへ行かぬように」「この愛を腕で抱き締め」ること。一つ目の願いに比べると、端的で分かりやすい。

 書き手はよく分かっているのだろう。気取ってばかりでは人の心は得られないと。妙なる言葉選びだ。

 二つ目の「この愛」は、「抱き締め」る対象であり、「私」が愛そのものだと感じさせる。まさに「愛」の塊たる「私」なのだ。

 

 三つ目の願いは、「霞んで識別できなくならぬように」「この愛を瞳に焼き付け」ること。生きている内に、記憶は「霞」むもの。決してそうならないよう、鮮やかなままに「焼き付け」てほしいと願う。

 再び少し気取った言い方で惑わせる。実にやり手だ。

 

 この願いの中に、「私」が愛おしく思っている「貴方」の部分を見て取ることが出来る。すなわち、「唇」・「腕」・「瞳」だ。「私」の着目する箇所であり、そこからアプローチをしかけてほしいと思っている。

 

 後半では、願いを告げる「私」の心理が語られる。

「私はこの世界に1人しかいません。」

 とは、実にストレートで、重みのある言葉だ。だからこそ、「この愛」は大切にされたい。この言葉を拒むことなど出来はしないだろう。

 さらに続く「私と貴方だけ」という囲い込みによって、まるで世界には二人だけが残されたようにさえ思わせる。

 直前の「1人しか」では無数の人たちを思わせるのに、直後で二人だけに限定する。その妙なる調べに、読み手は自然と舌を打つ。

 

 愛の痛みが、伝わってくる。

 

 

 次に行こう。

 

 

 青春の言葉に思える。瑞々しさがある、と私は思うのだが、それを第一印象で与えられるところに、私は酷く感銘を受けた。

 中々どうして、「好き」という言葉は使いにくいと私は思う。想いを伝えるにはあまりに短く、けれどあまりに多くの想いを込められる言葉だからだ。

 しかしこの詩では「貴方といるこの時間が好き」と、すっと言葉が出てくる。強い。

 「笑い合えるこの日常」は、二人の仲の良さを伝える。それが「日常」になるというのだから、二人が一緒にいる時間は、それなりに積もっているというのだろう。

 「寄り添い合えるこの関係」では、先の「日常」で見たような友愛的なそれから、恋愛的なものへと意識が変わる。肩か、背中か、二人が気を許しあう姿が目に浮かぶ。

 

 そんな二人のあり方が、「私はとにかく大好き」なのだという。「好き」から「大好き」へと、さらに想いは直線的になる。想いを率直に伝えることの力と重要性を、この「私」はよく知っている。きっと実際に、「私」はしっかりと愛を伝えられる人なんだろう。だからこその「関係」があるのだと分かる。

 

 素直な「私」は、それでいて遠慮深い。「このままでいた」いという気持ちは、「強欲」なのだと受け止めているからだ。「貴方」とのあり方が不変ではないことを、知っている。その上で、今の幸せを享受しつつ、それが続くようにと願うことを、過ぎた欲求だと考えている。ただ想いを伝えるだけではなく、思いやる気持ちが見える。

 

 「杖」の「乱用」とは何だろうか。タイトルには「魔女」とあるが、これを単なるファンタジーと読む気は私にはない。

 やはりこれは、〝愛の魔法〟などと形容されるような、恋が抱かせる幻想のことと読みたい。

 それは、恋が終われば〝錯覚〟だったと言ってしまいがちな、心のときめきや心理の揺れである。

 恋が続くように、恋をする人は〝魔法〟を使う。特別な仕草や、格好、言葉選びを用いて。

 

 本来、「貴方と通じあってる」のだから、そんなことはしなくても良いはずで、無欲であれば、「魔法なんて使」わないはずである。

 「っていうのにね。」という終わり方には、恋というものが、信じ切るにはあまりに危ういものであることを意識した思いが感じ取れる。

 

 「私」は今の二人のあり方を心から愛おしく思いつつも、それを抱きかかえているだけではいけないということをよく知っている。恋という特別な感情は、いかに二人の間に絆があろうとも、「魔法」を「使」って保ち続けなければならないのである。

 青春の瑞々しさを感じさせつつも、この「私」の恋は、最初のそれではないことを思わせる。

 痛みを味わいながら、けれど純な愛を抱けるこの人は、いったいどれだけ強い人なのだろう。

 

 

 さあ、最後の一品を喰していこう。

 

 デザートのような、軽いもので〆ようかとも思った。けれど、私は雪下まほろという人は、愛の痛みを詩う人だと思っているから、最後までそれと向き合っていく。

 

 「最期」という言葉で、これが誰かの終わりだということが分かる。

 死期においても「曖昧でいて下さい」と願うのは、何について「曖昧」でいろというのか。どこをどう探しても、明確な答えはない。

 

 「私を終わらせる呪い」といわれる「それ」こそ、「曖昧」が「明瞭」になった時に現れるものである。「呪い」だからこそ「終わらせる」ことが出来るのだが、それは本気で思っての言葉というより、そう表現せねばいられないような苦しみが表れていると思う。

 

 「今ある感情を全て押し殺」すというが、私はそれが複数的なものではなく、単一的なものであると読んでしまう。言葉にすれば様々な形になるかもしれないが、根源の部分は唯一つだと。すなわち「それ」である。

 

 「薄らぼけた」とは、ただでさえ「ぼけた」状態に、さらに弱々しさを付随させる「薄ら」がつくことによって、「最期」のハッキリしない「視界」が象徴的に描き出される。それはどこか、「曖昧」と通ずるような印象が見て取れる。

 「薄らぼけた視界に微笑みます」の「に」は、状態の認定を表す格助詞であり、〝○○の状態で〟という用法だと考えられる。従ってここは、「薄らぼけた視界」で、と解釈して良いだろう。「微笑」むというのも、普通の笑みとは違って、微かなものであり、弱々しい感覚がある言葉の組み合わせになっている。

 

 「冷たくなった私の薬指」だが、「冷たくなっ」てしまっていることから、「最期」を迎えてからのことであると考えられる。この詩を詩っている時点より後のことを指している。

 そうなった暁には、「貴方との誓いを外」すようにと「お願い」しているのだ。

 「薬指」に嵌める指輪の意味は、左手と右手とで変わってくるが、「誓い」という言葉から、教会で式を挙げた時にするようなそれと見れば左だが、約束という一般的な意味に取って、右と仮定することも出来る。

 ただ、「曖昧でいて」という言葉が、式を挙げるような二人の間で為されるのは無理がある。従って、ここは左ではなく、右と取る方が合理性が高い。

 この「誓い」は、指輪の隠喩であり、「曖昧」な「貴方」が見せた想いの象徴であると考えられる。

 

 最後に述べられる、「もう私には貴方を想う資格なんてないですから。」が意味するものは何だろうか。

 そもそも「私」は、どうして「最期」を迎えることになったのか。

 それについては、読み取る術がない。「貴方を想う資格」を剥奪されるようなことをしたからそうなったのか、逆に最期を迎えたことで、「貴方を想う資格」がなくなってしまったのか。

 いずれにせよ、「私」が「貴方を想う資格」を失う振る舞いをしたことには変わりがない。

 

 これは私の推測だが、「私」の「最期」は自発的なものだったのではないだろうか。それはおそらく、「貴方」の「曖昧」さへの反抗心が為せるものだった。しかしそれは、「貴方」を信じる気持ちへの裏切りだったと「私」は自戒する。

 もはや今際の際にある「私」にとっては、「曖昧」なものを「曖昧」なまま残して、答えを知ることなく世を去ろうとしているのだろう。

 「それ」を知ってしまったら、「終わ」りを押し付けられることになる。もしかすれば、願いもしない悲しい結末すら有り得る。ならば、希望を抱ける方を願って、「微笑み」ながら逝くことを選ぶのだろう。

 

 ここには様々なモノガタリが浮かび上がり得る。読み手それぞれが描く物語を、象徴的にさせるための「最期」と考える。

 人の想いが最も強く輝く、刹那だ。

 

 

 以上、三品を喰らってみた。

 愛、中でも愛の痛みを麗しく詩う詩人として、彼女の言葉は熱量を持っている。

 冷たさを扱う時でさえ、私の舌には温もりが感じられた。

 

 今後も彼女の詩を追いかけていきたい。

 いつか全身に回って、息絶える時まで。

【詩】石蹴り【朗読】




 小学生が始めた石蹴り

 いまだに僕は蹴り続けてる

 ランドセルがエナメルバッグになって

 スクールバッグからトートになっても

 タイムカプセルの上にあった石を蹴る

 


 一人、また一人とやめていく

 まだやってるのかと笑う声

 僕は言い返せなかった

 どこへ向かってるかなんて

 ゴールテープを切らなきゃ言えない

 


 いつだって僕を引き留めてくるのは

 石蹴りをやめてしまった奴らだ

 意固地になってるだけだなんて言って

 説得しにかかる奴らもいるけれど

 これだけは譲るわけにいかないんだ

 


 いつ石が溝に落ちるか分からない

 先に足が上がらなくなるかしれない

 そんなリスクを抱えて蹴り続ける

 夢を追うと言うには恥ずかしく

 石蹴りと呼び始めた僕の生き甲斐

日向理人を読む

 自分の名前がちょいとでも知られれば恩の字だ、と思っての下心から始まった企画、藤夜アキの詩喰シリーズ第四弾は、日向理人 (@rihito_hyuga) | Twitterさんの詩を喰らふてみむとてするなり。

 

 悲哀が好きな彼女は、私と感性が合う。しかも彼女には物事に没入する集中力と、対象を鋭く観察する洞察力、想像の世界を自由に泳ぎ切るスタミナがあるから、私は見習わねばならないだろう。

 

 今日はそんな彼女の詩を喰らっていこう。

 

 

 「あなた」とは何なのか?

 それがこの詩の最大の問題で、唯一の問題だろう。

 タイトルの『影』が答えだなどと、安易に思ったら負けである。なぜならここは、崇高な喰の場なのだから。

 

 その疑問を解決するためには、ここで示される「わたし」について深く知らなければならない。

 「わたし」は、「髪」を「伸ば」しもすれば、「切」りもする。「女」や「男」という種別に、こだわりを持たない。必要に応じて、また気分によって、「わたし」はどんな姿でもするのだろう。

 「何にだってなれる」という言葉の、「なれる」という可能の表現には、「なる」という言い方と異なり、「わたし」の強い自信が見て取れる。

 

 さらに「わたし」は、「ヒール」も「履」けるし「ハット」も「被れ」る。「ば」という順接仮定条件が用いられていることから、実際に「わたし」がそれらを身に付けたことがあるかどうかは、断定出来ない。ここはあくまでも、可能性の中の二点を示しただけ、と読むのが妥当だろう。

 望まれるのなら、「わたし」はどんな役柄だって演じてみせるのだろう。「彼氏」という立場、「彼女」という立場の持つ意味など、「わたし」には取るに足らない些末な問題のように感じられていると思われる。

 「誰にだって」という言葉は、そういった立場全てを演繹的に捉えてみたくなる。

 

 「姿形に囚われない」とは、もちろん『影』の特性ではあるのだが、「わたし」がその『影』のごとく、こだわることなく何にでもなる存在、ということを意味すると理解出来なくはないか。

 なりたい「あなた」とは、つまりその真逆、何かに拘泥し、注力し、献身する者ではないか。

 

 よく書き手はこんなことを言う。「そこまでのことは考えてもいなかった」と。あるモノについて、それを人間に見立てて考えてみるということは、古来より行われている。

 しかし、私たちはそこに見出した人間的な特性について、やはり、既に自分の蓄積した中にある、特定の誰かないし不特定多数の人間性を引っ張ってきているのだ。

 考えていようといまいと、人間に見立てる過程で、そこにはある人間の存在が浮かび上がってくるのだ。

 

 この「わたし」は、強い「個性」を持ちたいと願う、「何」にもなれなければ「誰」にもなれない、器用貧乏な自分のことを言っていると、私は読み解く。

 

 

 

 恋の話と読み解くのは、私が恋の物語を好きだからだろうか。友情についてかもしれないし、あるいはモノについてかもしれない。

 「宝石」という言葉から、第一印象として、ショーウィンドウの向こうに見える美しさを思った人もいるだろう。

 

 「君」と「私」の対比であり、この詩も前掲のものと似ている。低いのは自分であり、高いのは相手なのだ。

 「君」は「私の光」だという。光を光と認知するのは、自分がそれに近しくないからだと、私は思う。仮に相手が光そのものだったとしてさえ、自らが光に近ければ、相手を光だなどと強く意識することはないだろう。

 しかもここでは、「私」は「見ているだけで」という。その「だけ」という限定の表現は、「私」と「君」との関係性を想起させはしまいか。遠巻きに見つめながら、「心」の「潤」いを得る。叶わぬと決めつけた恋の、儚くも美しい心地によく似ている。

 この「君」は「宝石」に喩えられるが、「自ら輝く」のだという。「宝石」それ自身が自ずから光を放つというか、能動的に光を反射して「輝く」というのは、やや想像に難い。不意に目にした瞬間、光を反射するのも納得は出来るが、ここでは「自ら輝く宝石」として、一般的な宝石とは分けて考えることとした。

 だからこそ、「目が離せないでいた」のだ。単なる美しさ以上のものを、「君」に見出してのことだろう。

 

 そんな過去と対比的な今が、後半のテーマとなる。全八行を四行ずつに分けており、明確で分かりやすい切れ目だ。八という数字は律詩を想像させるし、良いまとまりを持てる数字だとも思う。

 さて、今や「君」は「消えた」。「逝ってしまった」わけではないという。名探偵ばりに死者を出す私への断りだろうか(無論冗談だ)。

 あえて書くことで、生存のイメージがぐっと増す。それを無駄なくさっと言い切ってみせるところに、力量を感じる。説明的・冗長になりかねない点で、さらっと書くのはやはり難しい。

 ここで私の大好きな言葉、「ただただ」が使われる。無力さを痛感させる魔法の言葉だ。「ただ」を重ねることで、「置いて行」かれた感覚がぐっと強くなる。

 

 さて、この「遙か遠く」「触れられない場所」とは何を意味するのだろうか。

 ポイントは「置いて行」くということにある。「君」と「私」とは、一定以上の関わりはあった。しかし、別れというものが設えられた感覚は持てない。

 卒業だろうか。友達以上恋人未満のような関係の相手が、卒業とと共にまるで関われなくなってしまったのだろうか。

 結婚だろうか。「触れられ」た関係を一方的に断ち切り、人の元に行ったのだろうか。

 

 この詩は読者に様々な世界を呼び起こさせる。アルバムをめくらせる力がある。

 あなたにとって、「君」は誰だろうか。

 

 

 

 本日最後の一品である。

「おもちゃの電話」は、私の中ではガラケーが思い浮かんでしまった。あるいは黒電話、あるいはPHS、あるいはスマートフォンだろう。

 電池式で、押すと「もしもし」とか、「電話だよ」とか、「メールだよ」とかをピロピロした音と共にいうアレだろう。

 「ボタンを押しても音はでない」からも、電池式で本来はピポパなんて音も出たのだろう。

 

 そして読者が抱く最大の謎、「あなたの声」が現れる。

 私は最初、なぜか録音機能を想像してしまったのだが、思い返せばそのようなものは搭載されていないだろう。「あなた」と「わたし」を同一視してしまったのだが、それは藤夜アキさんの世界観である。

 思い出してみてほしい。私たちが「おもちゃの電話」を使っていた頃のことを。

 私たちは、「誰か」とおはなししてはいなかっただろうか。

「もしもし、くまさん。お風邪の具合はどうですか? これからお見舞いにいきますからね」

 なんて具合である。「おもちゃの電話」には、きっと通話相手がいたはずだ。

 引っ張り出してみた「おもちゃの電話」に耳を当てれば、朧気ながらも「あなたの声」がよみがえってくる。あの日、私たちは確かに電話していたのだ。

 

 その「声」が聞こえたのは、「今も引き出しの中に」しまっていたからだろう。「わたし」の人柄がここに見出せる。やさしい人ではないだろうか。

 

 「ただの壊れたおもちゃだけど」の中の「だけど」という逆接は、愛おしむような響きを感じ取れる。

 

 「あなた」とは、あの日の通話相手でありつつ、遠い日、「わたし」の中にいた誰かさんなのだ。

 そして「あなた」と「わたし」との「つな」がりは、同時にあの日の「わたし」と今の「わたし」をも「つなぐ」。

 

 タイトルの『異なる者』は、そんな「わたし」の中の、「あなた」を思っての命名だろう。

 

 

 以上、三品を喰らってきた。

 平明な言葉から、深海を作り出す詩人。

 それが、日向理人という詩人だろうと私は思う。

 

 水溜まりを作ってちゃぷちゃぷする私も、見習いたいものだ。