詩人が息を詰まらせた時に読むお話
言葉ならある。
けれど言葉以上の何物にもならない。
そんな思いに頭を抱えたことはあるだろうか。
あゝ、あるからこそ、あなたはここに来たのだ。
少しばかり、そこに腰掛けて、私の話を聞いてほしい。
きっとあなたがもう一度目を開ける時、ここに来た時の気持ちなんて、忘れているだろうから。
なぜ筆は動かなくなったのか。
動いたふうに見えても、すぐに大きなインク溜まりを作ってしまうのか。
詩は、ある者にとっては汗、ある者にとっては涙、ある者にとっては血、いずれにせよ、他人のそれを使って、生み出すことは出来ない。
苦悩を乗り越えようと無理に絞り出せば、もちろん幾らかは流れ出るだろう。小学校の時、まだ行けると捻った雑巾のように。
けれど、泉を枯れ果てさせれば、それより先はない。
無理の先には、絶筆がある。
行き着く先は、「僕には才能がない」だ。
私は親友をそれで失った。良き友であり、良き師であり、超えるべき人だった。けれど彼はもう、筆を持たない。
なぜ筆は動かなくなったのか。
出し切ってしまったのだ。
その時心には、言葉と言葉とを繋げる、最も大切なものがない。
主義や主張は依然としてあるだろう。思想も感情もあるだろう。
だが、書きたいという衝動がない。それによって突き動かされ、集めた至極の言葉がない。
今ある言葉だけで、残された気持ちだけをどうやって伝えられるだろう。
もう、書いてしまったのだ。
夕焼けの下、手を振った彼との別れも。
風に舞う桜に乗せた、恩師への感謝も。
寒空に伸ばした、夢を諦めない決意も。
走り去る列車を追いかけた、あの日も。
もう、書いてしまったのだ。
詩を書くために生まれてきたと呼ばれる人がいる。けれどその人は、詩を書くために生まれてきたわけでは、もちろんない。
伝えたいと思ったことがあって、それを詩という形にしてみせただけなのだ。
彼がもし、次に伝えたいことを持たなければ、どうだろう。詩を書くために生まれてきたと思わせるような言葉が、よもや出るまい。
詩人は、詩を書く以前に、生きなければならない。
それまで生きた中で得たことを詩にしたら、また生きねば。
もし、あなたの身の回りに、いくらでも詩を書くことが出来るような人がいるなら、その人はきっと、あなたよりよっぽど密な人生を送っているのだろう。
言葉は増える。生きていれば、勝手に増えていく。
こうして私の話を聞いているだけでも、一つや二つ、新しい言葉があなたの心に入るだろう。
それだけで詩人が生まれるなら、詩人という職業は成り立たないだろう。
詩が書けないという思いは、あなたが詩を書きはじめる前に戻ったというだけのこと。
伝えたいもののために、必死に言葉を探し求めて、ああでもない、こうでもない、と道なき道をかき分けて進んだ時、あなたは今みたく、言葉を先に置かなかったはずだ。
詩人は言葉の力を手に入れる。
けれどその力が詩を生み続けることは、できない。
誰もが詩人になれない理由は、そこにこそあると思う。
海を見よう。
歌を聞こう。
彼女と手を繋ごう。
積んだ本を消化しよう。
芝生に寝転がって、雲を数えよう。
友達を誘って、ハンバーガーを食べに行こう。
見て、聴いて、触れて、嗅いで、味わおう。
伝えたいことを、また手に入れてほしい。
あなたには、詩を書く力は、もうあるのだから。
間違っても、「才能がない」なんてことは、ないのだから。
さあ、目を開いて。
見つめるべきものに、もう一度、目を向けてみて。