夢って遠いね

ほっと一息つきたいあなたに、ささやかな憩いの時間を。

雪下まほろを読む

 試食のつもりで詩を喰ってみる、というのが「藤夜アキの詩喰」のコンセプト、と後付け理論を語ってみる。これが試食ならとうの昔にスーパー出禁だと思うが。

 

 そんな第5回に、私の食卓に料理を供してくれたのは、雪下 まほろ(ゆきしも まほろ) (@t8x9jxgda279dt1) | Twitterさんだ。

 

私の毒を呑み込んで頂けないでしょうか。

 という依頼の文句からして、詩人様だな、と思わされる。今回でコロッと逝ってしまうかもしれない。気が付けば、三途の川でファンをしていたら、そういうことだと思ってほしい。

 

 美しい愛を詩う詩人。簡潔にそう言ってしまうべきだろう。彼女の詩に胸を打たれる読者の数は、恋をする人の数だと思う。

 

 さあ、喰うとしようか。

 

 

 灼けるような愛。まずは一言。

 「して下さい」→「しまわぬように」の流れを三組記し、前半の空気を作る。倒置を使い、印象的に書いていくのがポイントだと思う。

 一つ目の願いは、「零れて蒸発してしまわぬように」「この愛を唇で塞」ぐこと。「蒸発」は、液体が気化することを指すが、それはやはり、恋の熱によってであろう。深く抱いた恋情は、「塞」がれなければ「零れて」しまう。もしそうなってしまえば、「貴方」に焦がれる「私」の熱によって、その想いは「蒸発」してしまう。僅かでも失いたくない、「私」の恋心が生んだ、悲痛な訴え。さらにその先を思うなら、「零れ」るほどの愛は、「塞」いでくれた口を通じて、「貴方」にも流れていくだろう。

 

 二つ目の願いは、「離れて何処かへ行かぬように」「この愛を腕で抱き締め」ること。一つ目の願いに比べると、端的で分かりやすい。

 書き手はよく分かっているのだろう。気取ってばかりでは人の心は得られないと。妙なる言葉選びだ。

 二つ目の「この愛」は、「抱き締め」る対象であり、「私」が愛そのものだと感じさせる。まさに「愛」の塊たる「私」なのだ。

 

 三つ目の願いは、「霞んで識別できなくならぬように」「この愛を瞳に焼き付け」ること。生きている内に、記憶は「霞」むもの。決してそうならないよう、鮮やかなままに「焼き付け」てほしいと願う。

 再び少し気取った言い方で惑わせる。実にやり手だ。

 

 この願いの中に、「私」が愛おしく思っている「貴方」の部分を見て取ることが出来る。すなわち、「唇」・「腕」・「瞳」だ。「私」の着目する箇所であり、そこからアプローチをしかけてほしいと思っている。

 

 後半では、願いを告げる「私」の心理が語られる。

「私はこの世界に1人しかいません。」

 とは、実にストレートで、重みのある言葉だ。だからこそ、「この愛」は大切にされたい。この言葉を拒むことなど出来はしないだろう。

 さらに続く「私と貴方だけ」という囲い込みによって、まるで世界には二人だけが残されたようにさえ思わせる。

 直前の「1人しか」では無数の人たちを思わせるのに、直後で二人だけに限定する。その妙なる調べに、読み手は自然と舌を打つ。

 

 愛の痛みが、伝わってくる。

 

 

 次に行こう。

 

 

 青春の言葉に思える。瑞々しさがある、と私は思うのだが、それを第一印象で与えられるところに、私は酷く感銘を受けた。

 中々どうして、「好き」という言葉は使いにくいと私は思う。想いを伝えるにはあまりに短く、けれどあまりに多くの想いを込められる言葉だからだ。

 しかしこの詩では「貴方といるこの時間が好き」と、すっと言葉が出てくる。強い。

 「笑い合えるこの日常」は、二人の仲の良さを伝える。それが「日常」になるというのだから、二人が一緒にいる時間は、それなりに積もっているというのだろう。

 「寄り添い合えるこの関係」では、先の「日常」で見たような友愛的なそれから、恋愛的なものへと意識が変わる。肩か、背中か、二人が気を許しあう姿が目に浮かぶ。

 

 そんな二人のあり方が、「私はとにかく大好き」なのだという。「好き」から「大好き」へと、さらに想いは直線的になる。想いを率直に伝えることの力と重要性を、この「私」はよく知っている。きっと実際に、「私」はしっかりと愛を伝えられる人なんだろう。だからこその「関係」があるのだと分かる。

 

 素直な「私」は、それでいて遠慮深い。「このままでいた」いという気持ちは、「強欲」なのだと受け止めているからだ。「貴方」とのあり方が不変ではないことを、知っている。その上で、今の幸せを享受しつつ、それが続くようにと願うことを、過ぎた欲求だと考えている。ただ想いを伝えるだけではなく、思いやる気持ちが見える。

 

 「杖」の「乱用」とは何だろうか。タイトルには「魔女」とあるが、これを単なるファンタジーと読む気は私にはない。

 やはりこれは、〝愛の魔法〟などと形容されるような、恋が抱かせる幻想のことと読みたい。

 それは、恋が終われば〝錯覚〟だったと言ってしまいがちな、心のときめきや心理の揺れである。

 恋が続くように、恋をする人は〝魔法〟を使う。特別な仕草や、格好、言葉選びを用いて。

 

 本来、「貴方と通じあってる」のだから、そんなことはしなくても良いはずで、無欲であれば、「魔法なんて使」わないはずである。

 「っていうのにね。」という終わり方には、恋というものが、信じ切るにはあまりに危ういものであることを意識した思いが感じ取れる。

 

 「私」は今の二人のあり方を心から愛おしく思いつつも、それを抱きかかえているだけではいけないということをよく知っている。恋という特別な感情は、いかに二人の間に絆があろうとも、「魔法」を「使」って保ち続けなければならないのである。

 青春の瑞々しさを感じさせつつも、この「私」の恋は、最初のそれではないことを思わせる。

 痛みを味わいながら、けれど純な愛を抱けるこの人は、いったいどれだけ強い人なのだろう。

 

 

 さあ、最後の一品を喰していこう。

 

 デザートのような、軽いもので〆ようかとも思った。けれど、私は雪下まほろという人は、愛の痛みを詩う人だと思っているから、最後までそれと向き合っていく。

 

 「最期」という言葉で、これが誰かの終わりだということが分かる。

 死期においても「曖昧でいて下さい」と願うのは、何について「曖昧」でいろというのか。どこをどう探しても、明確な答えはない。

 

 「私を終わらせる呪い」といわれる「それ」こそ、「曖昧」が「明瞭」になった時に現れるものである。「呪い」だからこそ「終わらせる」ことが出来るのだが、それは本気で思っての言葉というより、そう表現せねばいられないような苦しみが表れていると思う。

 

 「今ある感情を全て押し殺」すというが、私はそれが複数的なものではなく、単一的なものであると読んでしまう。言葉にすれば様々な形になるかもしれないが、根源の部分は唯一つだと。すなわち「それ」である。

 

 「薄らぼけた」とは、ただでさえ「ぼけた」状態に、さらに弱々しさを付随させる「薄ら」がつくことによって、「最期」のハッキリしない「視界」が象徴的に描き出される。それはどこか、「曖昧」と通ずるような印象が見て取れる。

 「薄らぼけた視界に微笑みます」の「に」は、状態の認定を表す格助詞であり、〝○○の状態で〟という用法だと考えられる。従ってここは、「薄らぼけた視界」で、と解釈して良いだろう。「微笑」むというのも、普通の笑みとは違って、微かなものであり、弱々しい感覚がある言葉の組み合わせになっている。

 

 「冷たくなった私の薬指」だが、「冷たくなっ」てしまっていることから、「最期」を迎えてからのことであると考えられる。この詩を詩っている時点より後のことを指している。

 そうなった暁には、「貴方との誓いを外」すようにと「お願い」しているのだ。

 「薬指」に嵌める指輪の意味は、左手と右手とで変わってくるが、「誓い」という言葉から、教会で式を挙げた時にするようなそれと見れば左だが、約束という一般的な意味に取って、右と仮定することも出来る。

 ただ、「曖昧でいて」という言葉が、式を挙げるような二人の間で為されるのは無理がある。従って、ここは左ではなく、右と取る方が合理性が高い。

 この「誓い」は、指輪の隠喩であり、「曖昧」な「貴方」が見せた想いの象徴であると考えられる。

 

 最後に述べられる、「もう私には貴方を想う資格なんてないですから。」が意味するものは何だろうか。

 そもそも「私」は、どうして「最期」を迎えることになったのか。

 それについては、読み取る術がない。「貴方を想う資格」を剥奪されるようなことをしたからそうなったのか、逆に最期を迎えたことで、「貴方を想う資格」がなくなってしまったのか。

 いずれにせよ、「私」が「貴方を想う資格」を失う振る舞いをしたことには変わりがない。

 

 これは私の推測だが、「私」の「最期」は自発的なものだったのではないだろうか。それはおそらく、「貴方」の「曖昧」さへの反抗心が為せるものだった。しかしそれは、「貴方」を信じる気持ちへの裏切りだったと「私」は自戒する。

 もはや今際の際にある「私」にとっては、「曖昧」なものを「曖昧」なまま残して、答えを知ることなく世を去ろうとしているのだろう。

 「それ」を知ってしまったら、「終わ」りを押し付けられることになる。もしかすれば、願いもしない悲しい結末すら有り得る。ならば、希望を抱ける方を願って、「微笑み」ながら逝くことを選ぶのだろう。

 

 ここには様々なモノガタリが浮かび上がり得る。読み手それぞれが描く物語を、象徴的にさせるための「最期」と考える。

 人の想いが最も強く輝く、刹那だ。

 

 

 以上、三品を喰らってみた。

 愛、中でも愛の痛みを麗しく詩う詩人として、彼女の言葉は熱量を持っている。

 冷たさを扱う時でさえ、私の舌には温もりが感じられた。

 

 今後も彼女の詩を追いかけていきたい。

 いつか全身に回って、息絶える時まで。