日向理人を読む
自分の名前がちょいとでも知られれば恩の字だ、と思っての下心から始まった企画、藤夜アキの詩喰シリーズ第四弾は、日向理人 (@rihito_hyuga) | Twitterさんの詩を喰らふてみむとてするなり。
悲哀が好きな彼女は、私と感性が合う。しかも彼女には物事に没入する集中力と、対象を鋭く観察する洞察力、想像の世界を自由に泳ぎ切るスタミナがあるから、私は見習わねばならないだろう。
今日はそんな彼女の詩を喰らっていこう。
髪を伸ばせば女
— 日向理人 (@rihito_hyuga) 2019年1月18日
髪を切れば男
わたしは何にだってなれる
ヒールを履けば彼女
ハットを被れば彼氏
わたしは誰にだってなれる
姿形に囚われないわたしは
あなたにだけはなれなかった
『影』#詩
「あなた」とは何なのか?
それがこの詩の最大の問題で、唯一の問題だろう。
タイトルの『影』が答えだなどと、安易に思ったら負けである。なぜならここは、崇高な喰の場なのだから。
その疑問を解決するためには、ここで示される「わたし」について深く知らなければならない。
「わたし」は、「髪」を「伸ば」しもすれば、「切」りもする。「女」や「男」という種別に、こだわりを持たない。必要に応じて、また気分によって、「わたし」はどんな姿でもするのだろう。
「何にだってなれる」という言葉の、「なれる」という可能の表現には、「なる」という言い方と異なり、「わたし」の強い自信が見て取れる。
さらに「わたし」は、「ヒール」も「履」けるし「ハット」も「被れ」る。「ば」という順接仮定条件が用いられていることから、実際に「わたし」がそれらを身に付けたことがあるかどうかは、断定出来ない。ここはあくまでも、可能性の中の二点を示しただけ、と読むのが妥当だろう。
望まれるのなら、「わたし」はどんな役柄だって演じてみせるのだろう。「彼氏」という立場、「彼女」という立場の持つ意味など、「わたし」には取るに足らない些末な問題のように感じられていると思われる。
「誰にだって」という言葉は、そういった立場全てを演繹的に捉えてみたくなる。
「姿形に囚われない」とは、もちろん『影』の特性ではあるのだが、「わたし」がその『影』のごとく、こだわることなく何にでもなる存在、ということを意味すると理解出来なくはないか。
なりたい「あなた」とは、つまりその真逆、何かに拘泥し、注力し、献身する者ではないか。
よく書き手はこんなことを言う。「そこまでのことは考えてもいなかった」と。あるモノについて、それを人間に見立てて考えてみるということは、古来より行われている。
しかし、私たちはそこに見出した人間的な特性について、やはり、既に自分の蓄積した中にある、特定の誰かないし不特定多数の人間性を引っ張ってきているのだ。
考えていようといまいと、人間に見立てる過程で、そこにはある人間の存在が浮かび上がってくるのだ。
この「わたし」は、強い「個性」を持ちたいと願う、「何」にもなれなければ「誰」にもなれない、器用貧乏な自分のことを言っていると、私は読み解く。
君は私の光だった
— 日向理人 (@rihito_hyuga) 2019年1月18日
見ているだけで心が潤った
まるで自ら輝く宝石のようで
私は目が離せないでいた
そんな君も、もう消えた
逝ってしまったのではなく
ただただ私を置いて行った
遙か遠くへ、触れられない場所へ
『私の光』#詩
恋の話と読み解くのは、私が恋の物語を好きだからだろうか。友情についてかもしれないし、あるいはモノについてかもしれない。
「宝石」という言葉から、第一印象として、ショーウィンドウの向こうに見える美しさを思った人もいるだろう。
「君」と「私」の対比であり、この詩も前掲のものと似ている。低いのは自分であり、高いのは相手なのだ。
「君」は「私の光」だという。光を光と認知するのは、自分がそれに近しくないからだと、私は思う。仮に相手が光そのものだったとしてさえ、自らが光に近ければ、相手を光だなどと強く意識することはないだろう。
しかもここでは、「私」は「見ているだけで」という。その「だけ」という限定の表現は、「私」と「君」との関係性を想起させはしまいか。遠巻きに見つめながら、「心」の「潤」いを得る。叶わぬと決めつけた恋の、儚くも美しい心地によく似ている。
この「君」は「宝石」に喩えられるが、「自ら輝く」のだという。「宝石」それ自身が自ずから光を放つというか、能動的に光を反射して「輝く」というのは、やや想像に難い。不意に目にした瞬間、光を反射するのも納得は出来るが、ここでは「自ら輝く宝石」として、一般的な宝石とは分けて考えることとした。
だからこそ、「目が離せないでいた」のだ。単なる美しさ以上のものを、「君」に見出してのことだろう。
そんな過去と対比的な今が、後半のテーマとなる。全八行を四行ずつに分けており、明確で分かりやすい切れ目だ。八という数字は律詩を想像させるし、良いまとまりを持てる数字だとも思う。
さて、今や「君」は「消えた」。「逝ってしまった」わけではないという。名探偵ばりに死者を出す私への断りだろうか(無論冗談だ)。
あえて書くことで、生存のイメージがぐっと増す。それを無駄なくさっと言い切ってみせるところに、力量を感じる。説明的・冗長になりかねない点で、さらっと書くのはやはり難しい。
ここで私の大好きな言葉、「ただただ」が使われる。無力さを痛感させる魔法の言葉だ。「ただ」を重ねることで、「置いて行」かれた感覚がぐっと強くなる。
さて、この「遙か遠く」「触れられない場所」とは何を意味するのだろうか。
ポイントは「置いて行」くということにある。「君」と「私」とは、一定以上の関わりはあった。しかし、別れというものが設えられた感覚は持てない。
卒業だろうか。友達以上恋人未満のような関係の相手が、卒業とと共にまるで関われなくなってしまったのだろうか。
結婚だろうか。「触れられ」た関係を一方的に断ち切り、人の元に行ったのだろうか。
この詩は読者に様々な世界を呼び起こさせる。アルバムをめくらせる力がある。
あなたにとって、「君」は誰だろうか。
むかし壊したおもちゃの電話
— 日向理人 (@rihito_hyuga) 2019年1月21日
今も引き出しの中に入ってる
ボタンを押しても音はでない
だけどあなたの声は聞こえた
ただの壊れたおもちゃだけど
あなたとわたしをつなぐもの
『異なる者』#詩
本日最後の一品である。
「おもちゃの電話」は、私の中ではガラケーが思い浮かんでしまった。あるいは黒電話、あるいはPHS、あるいはスマートフォンだろう。
電池式で、押すと「もしもし」とか、「電話だよ」とか、「メールだよ」とかをピロピロした音と共にいうアレだろう。
「ボタンを押しても音はでない」からも、電池式で本来はピポパなんて音も出たのだろう。
そして読者が抱く最大の謎、「あなたの声」が現れる。
私は最初、なぜか録音機能を想像してしまったのだが、思い返せばそのようなものは搭載されていないだろう。「あなた」と「わたし」を同一視してしまったのだが、それは藤夜アキさんの世界観である。
思い出してみてほしい。私たちが「おもちゃの電話」を使っていた頃のことを。
私たちは、「誰か」とおはなししてはいなかっただろうか。
「もしもし、くまさん。お風邪の具合はどうですか? これからお見舞いにいきますからね」
なんて具合である。「おもちゃの電話」には、きっと通話相手がいたはずだ。
引っ張り出してみた「おもちゃの電話」に耳を当てれば、朧気ながらも「あなたの声」がよみがえってくる。あの日、私たちは確かに電話していたのだ。
その「声」が聞こえたのは、「今も引き出しの中に」しまっていたからだろう。「わたし」の人柄がここに見出せる。やさしい人ではないだろうか。
「ただの壊れたおもちゃだけど」の中の「だけど」という逆接は、愛おしむような響きを感じ取れる。
「あなた」とは、あの日の通話相手でありつつ、遠い日、「わたし」の中にいた誰かさんなのだ。
そして「あなた」と「わたし」との「つな」がりは、同時にあの日の「わたし」と今の「わたし」をも「つなぐ」。
タイトルの『異なる者』は、そんな「わたし」の中の、「あなた」を思っての命名だろう。
以上、三品を喰らってきた。
平明な言葉から、深海を作り出す詩人。
それが、日向理人という詩人だろうと私は思う。