camelを読む
めでたいことにシリーズ化することが決まったこの企画。以後、藤夜アキの詩喰と記してやっていこうと思う。
そんな二回目はcamel (@kaerutorakuda) | Twitterさんの詩を喰らおうと思う。
彼女は不思議な空間を作り上げる達人だ。以前、「キリン」という小説を読んだが、部屋にキリンがいるのである。謎である。しかし何故か文章が頭に入ってくるのである。
ゆるっとくらっと
— camel (@kaerutorakuda) 2019年1月16日
おちてくわたし
ぬるっとべちゃっと
つぶれるわたし
さらっとするっと
ながれたわたし#安楽詩
彼女独自の詩のタグ、安楽詩だ。
その名の通り、静かに命を終えられそうな優しさを湛えている。
教科書を開くと載っていそうなひらがなの柔らかさを感じる。しかし、これは教科書には載せられないだろう。私は載せてほしいのだが、明るく牧歌的なものばかり載るので致し方ない。
さて、冗談もさておき、詩を見ていく。
まずやはり目を惹かれるのは、「ゆるっと」「くらっと」「ぬるっと」「べちゃっと」「さらっと」「するっと」の言葉選びだろう。
落下の説明は、「ゆるっと」でありながら、「くらっと」なのだ。目眩がしたかと思うと、それに身を任せて落ちていく。どこからどこへ落ちるのだろうか。私はつい、イラストにあるような真っ白い空間を落ちていくように思う。そういえば彼女、絵も嗜むのだ。
さらに「わたし」は「ぬるっ」と「つぶれる」。落下した先、底面に打ちつけられて、だろう。「ぬるっと」潰れるとは何なのか。これはおそらく、「べちゃっと」いうような潰れた瞬間の描写というよりは、潰れ出たものの体液を意識した表現ではあるまいか。まずそれが沁みだし、最後に潰れきる。悍ましくも美しい、そう思わせるひらがなの柔らかさである。
そうして落下した「わたし」は、「さらっとするっとながれ」る。このあっさりとした感じが良い。藤夜アキならここでぐだぐだ伸びるのである。自分の心を垂れ流すのである。流すどころか流れてしまって、はいおしまい。
実に美しく、「わたし」はこの世から溶け去ったとでも言うべきか。三組で完結させる勇気というものを、私も見習っていきたい。
いっしゅんだけ
— camel (@kaerutorakuda) 2019年1月16日
おとしためだま
ひろったものの
つぶれたひとみ
いちやでういた
ふたつのれんず#安楽詩
冒頭から目玉が飛び出る。「いっしゅんだけ」眼球を「落とした」のだという。落ちるものなのだろうか。これがcamelマジックとでも言うべきものだろう。私たちの脳裏には、しっかり落とした眼球が目に浮かぶのである。目、落としてるけど。
その「めだま」はあっさり「ひろ」えてしまう。驚くふしもない。よくあることなのだろうか。
いやむしろ、「つぶれたひとみ」とあるのに読み手が驚かされてしまう。どうやらこの目玉、その一瞬で大きく傷んだらしい。
締めくくる言葉は、「いちやでういたふたつのれんず」であるが、漢字に直せば「一夜で浮いた二つのレンズ」となるだろう。レンズとは、コンタクトレンズのことだろうか。それとも、人の眼球にあるレンズのことだろうか。浮くものだから、コンタクトと読んでおく。
さて、この詩が浮かび上がらせるものは何か。
「いちやでういた」という言葉には、あまりのことへのショックと悲しみが見えるように思う。冒頭の「いっしゅん」と呼応して、刹那の出来事を際立たせる。
せっかく用意したコンタクトレンズが、「つぶれたひとみ」にはもう上手くハマらないのである。それもそのはず、あれは真っ当な眼球にしっとりと添うものだからだ。
到底起こり得ないような「めだま」を「おとす」という事件は、そのままに読み取る以上の想像を許されるなら、コンタクトレンズを付けるという美意識の変革を目指した詠み手が、見事に希望を打ち砕かれたことを意味するのではないか。
メガネを厭ってコンタクトを付け、愛しいその人のもとへ変わった自分を見せようとした。けれども、目の前には受け容れがたい事態が起こっていた。だから私は驚きのあまり、「めだま」を「おとし」てしまったのだ。「つぶれたひとみ」は、落下の衝撃以外のダメージも食らっていた。
最早希望のレンズは、その瞳には戻らない。
短いながら、幾多の物語を裏に潜ませた詩だといえるだろう。詩の持つ、行間の効用を大きく活かした作品だと読めた。
突き刺さったまま
— camel (@kaerutorakuda) 2019年1月16日
抜かないでいたの
花咲く日を夢見て
ただ待っていたの
腐りゆく日を見て
抜けなくなったの#安楽詩
今回取り上げた中で、最も私の心に「突き刺さった」のがこの詩だ。
藤夜アキ好みの「抜かないでいたの」という女性的な文句に始まるこの詩は、物騒な言葉と可憐な言葉が同衾して、魅惑的な世界を創り上げる。
何が「突き刺さったまま」なのだろう。私はすぐにナイフを想像してしまうからいけない。
もう少し後ろに目をやれば、「花咲く日を夢見て」いたという。これは、「刺さった」対象物が「花咲く」という理解で良いだろうか。否、それではまずいだろう。
この詩において重要なのは、「刺さった」側ではなく、「刺さった」ものなのだ。
「抜かないでいたの」と「抜けなくなったの」とで二度表れる、抜くという表現は、私たち読み手を「刺さった」ものへと視線を誘う。
ならば、この詩の主題は「刺さった」ものに他ならない。
「抜かないでいたの」というのは、詠み手がそれをいじらしく感じている証拠だろう。
それはどうやら「花咲く」類のもので、同時に「腐りゆく」類のもの。素直に花の類と見るかどうか、私は頭をひねる。
今、一旦素直に言葉を受け止め、花の何某と理解しよう。
刺さるような花であれば、花茎はそれなりに硬いだろう。薔薇のような花であれば、それも可能だ。
まだ蕾のそれが、ではどこに刺さるのか。
やはりそれは、この詩の詠み手ではないか。「刺さ」るという強烈な言葉がかきたてるものは、対象を人間と見做させると思いたい。
今仮に、「私」という主語を詠み手の人称に用いるなら、この命の輝きに満ちた蕾が、私の胸元辺りに突き刺さる。
私は「花咲く日を夢見て」、希望に胸を膨らませた。「ただ待っていた」という言葉には、じっとその日を待つような、私のいじらしさが見える。
しかしそれは、無惨にも「腐」っていく。致し方のないこと。花は、本来あるべき場所にないのだから。
それでも、「腐りゆく」様は、私にとっては美的肯定感を以て受け止められたに違いない。
始め「抜かないでいたの」と受動的だった姿勢が、最後には「抜けなくなったの」と積極的な姿勢に変わっている。
私は、期待していた以上のものに出逢うことが出来たのだ。
通例美しいとされる「花咲く」状態以上に、慈しむことの出来る状態を知った私の発見と喜びを、彼女に出来る最高の形で切り取った、それがこの詩の真髄ではないだろうか。
以上、camelワールドを僅か三篇ではあるが満喫してきた。
素朴な言葉、やわらかい表現を用いながら、イラストのような奥行きのある世界を構築するその力、しっかりと喰らわせてもらった。
さあ、得た栄養は、詩作の喜びに還元しようか。