黒羽黎斗を読む
彼はつい最近詩を詠み始めたという。なるほど、時空的にはそうなのやもしれない。けれど、どうやら彼は前世から詩を書いていたらしい。そう考えないと可笑しい。
そんな冗談はさておき、彼を読む中で、私は彼の良きところを盗みたく思う。私は貪欲なのだ。私に無いものは全て得たいと思う。見境などなく、今回、彼を喰らおうと思う。
それでは、いただくとしよう。合掌。
酸が降り、身は焦げる
— 黒羽 黎斗 (@ReitoKuroba) 2019年1月16日
爛れずり落ちた毛並みは
服や靴にひっかかり
地の肥やしにはならない
目元に流れ込むのは
睫毛とほんの少しの髪の毛
フィルタリングの始まりと
真実の終わりを
焦点の内側から見せようとしないまま
透過する#黒黎詩#アトリエ部
詠み手は獣なのだろうか。
しかし酸によって剥げ落ちたその毛も、大地には還らないなどと、虚しいことを言う。
毛に着目する前聯に対して、複雑難解な後聯がやってくる。
フィルタリングが始まることによって、真実というありのままは消えてなくなってしまう。
しかも、そのフィルタリングはどうやら手の内を見せないようだ。何が弾かれ、何が残るというのだろう。
そしてまた前聯に戻ろう。この酸こそ、私という体毛そのままの姿から、人間という表向きの姿を見せつけるフィルタリングなのではないか。
ならば酸とは、私たちが人間を装うために用いたしがなさを意味するのかもしれない。
私たちが人間という当たり前を前提から覆す詩だと読めるのではないだろうか。
女と音と馬鹿と文字が踊る夜は
— 黒羽 黎斗 (@ReitoKuroba) 2019年1月15日
結局求め作り上げようとする
偶像崇拝の最中に見出したのは
ハラハラ降りしきる雪のような
真っ赤な林檎の末路
手の甲から滴って
目を開かせる
光らせる#黒黎詩#アトリエ部
まず目を惹くのは、下がってゆくに連れて減っていく文字数だろう。不徹底なように見えるのは、本人がそこを強く意識せず、結果としてこうなったことを意味するのだろう。
「女」と「音」と「馬鹿」と「文字」が躍るのだというが、これらはいかなるグルーピングによってここに表れたのか。同列ではないだろう。抗議団体がデモ行進しかねない。単なる羅列と見ることも出来るが、藤夜アキではあるまいし、それもないだろう。
自分を構成する諸要素だろうか。私は彼を彼と認識していたが、自身の女性性を言うのかもしれない。あるいは、自分の身の回りにあるものという可能性もある。
続く「結局」という文字によって、これらが肯定的には捉えられていない印象を与える。ならば、その後の「偶像崇拝」も彼は厭いつつ行っているのやもしれない。
雪と林檎の対照は、色の対比からの詠みだろうが、私としては雪に白を添えないのであれば、林檎にも赤を添えない。だがしかし、このアシメトリを美とみることも出来る。私が喰らうべきは、そういう可能性だろう。
「林檎の末路」とは何か。前述の「雪のような」から想像するに、儚い終わりだ。さらに「手の甲から滴」るというのだから、腐りゆくのとも異なるだろう。自然な雪解けではなく、人の手に触れると解けるが如く、人の手による終わりと読もう。
それが「目を開かせ」て「光らせる」という。HIRAKASEとHIKARASEの音の遊びには舌を巻いた。やってくれる。
そして全体に考察を還元すれば、当初厭っていたはずのグループを、それでも彼は肯定的に受け止めている。詠み手もまた何かを信じ、そこに光を見出したのだろう。
厭世的なものの見方の中に、それでも生を容認しようという力強さを感じさせられる。
藤夜アキにない、生きることへの力強い意志だ。
愛し合うコンパスと物差し
— 黒羽 黎斗 (@ReitoKuroba) 2019年1月13日
幾億の星を表すが夜を知らず
何人も彼らを騙すことは出来ない
学ぶことなど何も無いようで
あなた空を滑り飛ぶ様
あなた妨げる岩々の様
食い違う真実は
千の嘘でも固まらないようです
顧みるのは針と端の羞恥
彼らは諦めを産むもの#黒黎詩#アトリエ部
いきなりコンパスと物差しが愛し合う。こんなもの反則である。まさかの熱愛報道発覚に読み手はやられてしまう。
しかしモノはモノである。星は図形として描けども夜など知らず、騙されることもなく、もちろん学ぶこともない。唐突にモノだと言われて、ようやく二人の愛を容認しようという気になった我々は唖然とさせられる。右頬の次は左頬を差し出せと言われた気分である。
次の聯は、お互いの言葉だろうか。カギ括弧に頼らない台詞の表記は、「あなた」に始まる呼びかけによって表されている。「空を滑り飛ぶ」のは物差しだろうか。確かに机から滑空する。「妨げる岩々」というのが釈然としない。コンパスにそのような役割が生まれたのだろうか。それとも、物差しは浮気していたのだろうか。
と思いきや、「食い違う真実」が四聯目で明かされる。モノでしかない彼らは、「嘘」などでは「固ま」るはずがない。この四聯目のみは、詠み手の主体が別になっており、語り手と覚しき存在が現れている。神の視点が姿を垣間見せる辺りに挑戦的な試みを見て取れる。
すれ違う二人は、在りし日を「顧みる」。「針と端の羞恥」は、また言葉遊びである。しかしこれにより、冒頭の滑稽にも思える書き出しが、コンパスを使う際に、まず必要な長さだけ両肢を広げさせるために物差しを併用することを意味させるのである。
しかしその接触はあまりに束の間。刹那の逢瀬は、まさに「諦めを産むもの」なのだろう。
モノのあり方を人のそれになぞらえる見立ての手法として、実に興味深い作品である。日常的な二者による共演というものも、詩を身近なものに読ませる秘訣だろうか。
今回は三篇の詩を考察してみた。五篇ほどやろうかと思っていたが、かなり濃厚で腹持ちが良さそうなため、ここで箸を置く。美味であった。
まさに詩人である。
藤夜アキが書くと、チラシの裏の落書きになる辺り、彼の詩才がよく分かって袖が濡れる。
彼を見習って、より多くの詩を書いていこうと思う。