やさしく考える詩のはじめかた #3 ことばを探す旅に出る
筆を執ることだけは億劫にならない、だけどiPhoneでしか書かないから筆はおろかペンだって持ちやしない、どうも、藤夜アキです。
このシリーズも三回目。ありがたいお言葉を詩作仲間の方にいただいたこともあって、書く気力が湧いてきました(サボる創作家の何割かは、応援してやるだけで簡単に走りだすはずです。さあ応援だ)。
そしてこれが掲載されるのは書いてから三カ月後になってのことであった。
今回はことばの選び方、と前回には言っていたものですが、いわゆる、ひらたーく固く言うところの「語彙力」のお話です(彙って漢字は手書きで書けない)。
よく言います。「語彙力が足りない。ヤバい(語彙力)」と。あるいは、「あの人は語彙力の塊だ」とか。
語彙力って、広辞苑や大辞林が頭の中に入っていること、ではないと思います、私は。でも入れてはみたい。
例えば、
驟雨の中、失踪した心。
浅薄なセンチメンタリズムに踊らされ、私は郷里を捨てた。
あゝ、雨よ、白い雨よ。
願わくば、その烈しさで私を真新しくしておくれ。
こんな詩を書いてみましたが、これはわざとらしく言葉を詰め込んでやった作品です。普段のことば選びのルールとは変えています。書いててあんまり楽しくない。
語彙力と聞くと一般的に想像されるのは、漢語が当たるかと思います。
驟雨とはにわか雨のこと。日常では聞かないことばですね。夕立と書けば、誰だって分かりますね。でも、夕立じゃかっこがつかないし、みたいに思った時、驟雨を使ってみると効果があるのです。
ちなみに、「白い雨」は、同じくにわか雨を示す白雨を、和語の形に私が書き換えたものです。驟雨が分かった人になら分かるだろう、手の込んだことをしてみました。
センチメンタリズムは、いわゆる横文字。詳しくは後で述べます。
失踪、浅薄、郷里。嫌というほど詰め込んでやりました。
これはことばの持つイメージの問題ですが、漢語を多用すると、どうしても硬い印象になります。インテリぶってんじゃねえぞ! ってシャンデリアが飛んできます。
ですから、語彙力という言葉に呪われていると、時として堅苦しい人になります。
そもそも、漢語は明治時代以降に爆発的に増殖したもので(種類と使用頻度の話です。もちろんお隣の国の言葉ですから、存在自体は昔からありますよね)、現代人が文豪の作品ばかり目にするものですから、さも語彙力といえば漢語のような印象を抱くわけです。
というか、用例が一作品しかないものもあるわけで、当時の漢語ブームは私は嫌いです。難しけりゃ良いってもんじゃない。かっこよくて好きだけど(矛盾)。
後、この漢語の多用には、致命的な欠点があります。
読み手が意味を分かってくれないと、意味の分からない詩にしかならない点です。
詩は得てして意味不明なものですが、ひとつひとつの言葉は分かるけれど、それらがどう繋がるのかが分からないのと、最初から何が書いてあるのか分からないのとでは違います。
中国語の文を読んでる感覚にさせてしまったら、それは詩人の自己満足でおしまいです(自己満足、大事ですけど)。
難しい漢語を使うな、っていうことではありません。辞書を引かせまくるな、ということです。キーポイントで、あまり知られていないだろうことばを使うのは、とても重要なことなんです。
あゝ、この人はどうしてこのことばを選んだろう?
そう思わせたら勝ちだと思います。
だからこそ、必殺技のように使うべきです。
毎回見開きドーン! な漫画だと、インパクトにかけますし、何よりお話が進みません。
もちろん、提出先が全員知識の塊だったら別です。それでも、「私の語彙力は53万です」なんてひけらかしたって、良いことないと思います。というかそんな相手には金髪の超人がお仕置きに来ます。
私の好きなアーティストの歌詞を見てみても、確かに難しいことばはあります。でも、大筋は義務教育を終えていたら分かるものが中心です。
分かるものの中に、よく分からないものが混ざっている。これって何だ? 調べてみよう……なるほど、そうだったのか、こんなことばを使うなんてさすがだなぁ、スキ♡
ってなるんですよ。
さて、ここまで漢語批判をとうとうと述べてきました。もともと漢語が好きな人で、よく硬いと言われるので、色々見つめた結果行き着いた、私なりの答えを示してみた感じです。
次は、「白い雨」のようなパターンについて説明します。
これはいわゆる「造語」というものに当たるはずです。白雨は既存のものです。辞書を引いても出てきます。しかし、「あゝ、雨よ、白雨よ」とすると、「あめ」「ハクウ」と訓読みと音読みが混ざってしまいます。今回はそれが嫌だったんです。
そこで、白雨を「白い雨」としてみました。
和歌においては「白露」を「ハクロ」ではなく「しらつゆ」と読ませます。これは和歌が和語の文学だから当たり前ですが、本来「しらつゆ」という言い回しは日本になかったようで、漢詩に見える表現を借り受け、美しい日本の読み方を生み出したらしいのです。
まあ細かい語学の話は偉い教授センセの論文でも読んでもらえば良いので、私が言いたいのは、ことばは自分でも作れる、ということです。カワイイが作れるのと一緒です。違うか。
日本語は複合語をすぐに作れてしまいます。選挙カーとかそうですよね。LI○Eスタンプもそうでしょう。接着剤なしでくっつくので、小さなお子様にも安心。トマト爆弾、ほら、スペインのお祭りで投げられるやつ。
ただこれも考えもので、造語は嫌いな人にはとても嫌われます。辞書第一主義というのでしょうか、公式が好きな人には蕁麻疹が出るほど辛いようです。
でもことばって辞書が後に決まってますから、権威にすがりたい人たちなんですよね、そういうのって。時にロックに反骨精神を見せていかねばならない芸術家は、権威に屈してばかりではいけません。
でも責められるのには弱いのよ……。
新語というのも、私はあまり使いませんが、詩ではかなりの力を発揮してくれます。やばたにえん(早速の死語)。
主に今風の、若者の、現代の表現に使えますが、大学で「高校の校長の物まね」をしてもウケないのと同じで、ある程度知られていないとずっこけます。
目新しさ、奇抜さは目を惹いて良いですが、悪目立ちしてしまわないよう、少し保守的な目線を用意して読み返してみるのも大事なことです。ヤ○ババーン。
ことばとは実に力強いものです。
母親が子に感じるものも、兄が弟に感じるものも、担任が生徒に感じるものも、カノジョがカレシに感じるものも、ストーカーがターゲットに感じるものも、ファンがアイドルに感じるものも、太郎君がペットのポチに感じるものも、主が我らに感じるものも、「愛」です。
母性から来るのか、家族だから抱くのか、本能がそうさせるのか、倒錯してそうなったのか、応援したいのか、癒しを得られるからなのか、超人的なそれなのか、そこを表せることばを探す旅に、私たちは度々船出をしなければなりません。
ただ一言、「愛」で良い時もあるのです。
けれど、私たちは2018年を生きているので、794年や1333年、1789年に言われてしまったことは、私のオリジナルだ、と言えないのです。仕方がありませんから、私たちのことばでもって、どんな「愛」か伝えなければいけないのです。
随分長くなっていますが、最後に横文字について説明して、今回の最後とします。
コラボレーション、ファンタジー、ラビリンス、アナーキズム、アポロジー、キュビズム。
何だか目がチカチカしますね。横文字は人によって得意不得意があり、世界史を学んだことのある人は、中国の皇帝の名前を覚えるのが得意な人(洪武帝じゃん! 乾隆帝じゃん! わっほい!)とローマの皇帝の名前を覚えるのが得意な人(マルクス・アウレリウス・アントニヌスだー! コンスタンティヌス11世だー! ウオオオ!)とに分かれた記憶があるかと思います。え? ない?
頭にさらさら文字が入るかどうか、ということらしく、横文字の多用は若者であっても厭う人は一定います。
私たち日本人は、欧米の言葉を漢語に翻訳して、受け止めやすくする変換をしばしば行いますから、上の例ならセンチメンタリズムは感傷主義(直訳すれば良いってものでもないですが)とどちらが合うか考えてみても良いと思います。
ただ、これも味の問題ですから、目玉焼きはソースをかけるのか醤油をかけるのか分かれるみたいに、皆様のお好みで変えてみてください。
あ、いけない、「どうやって語彙力を増やしたら良いのよ!」という、最も抱かれがちな質問に私なりの解答を述べるのを忘れていました!
「本を読め」とか言いません。私は。
読書が好きな人ほど、本を読め本を読めと言います。本は確かに大事です。でも、本にはことばが多すぎます。語彙力を身に付けようにも、もう次から次から出てきて、いちいちメモっていたら本を読むのが逆に嫌になります。
「ことばを探す旅に出てください」と言います。私は。
ことばは私たちの身の回りに溢れています。電車の中吊り広告、ウェブサイト、お菓子のパッケージ、ゲームのクエスト名、女子高生の会話、新聞の一面、機械の説明書。
何だって良いんです。すぐさま使えなくて良いんです。「あ、いいな」を繰り返す内、いつかふいに使える瞬間が来ます。
映画を見たり、ドラマを見たり、音楽を聞いたり、ことばが文字として出てこないものを鑑賞するのも、意識せずに語彙力を増やせる機会だと思います。
嫌いになってしまうような努力はしないでください。
好きになる、楽しくなる努力をしてください。
楽しんで詩を書きたいですよね。
ということで、次回は今回長くなりすぎるのを厭って書かなかった、残りの分をまとめていきたいと思います。
次回もお付き合いくださると幸いです。