夢って遠いね

生きることに疲れた人が、それでも生きていくブログ

やさしく考える詩のはじめかた #2 詩を詩にするもの

第二回 詩を詩にするもの

 無事に第二回スタートです。サボり癖のある人なので、ちゃんと完結できなかったらどうしよう、っていつも思っています。詩はちゃんと書き切れる、だから素敵なんですよ。

 

 第一回はこちらです。

tohya-aki-works.hatenablog.jp

 

 さぁ、前回の詩を振り返ってみましょう。

 

 僕は今日、学校を休んだ。
 人生で初めてのずる休み。
 最初の爽快感と、つきまとう罪悪感と。
 嫌な学校より、嫌な胸の中。
 でも、今から行くかと聞かれたら。
 僕は答えるよ。
 願い下げだ、って。

 

 これがどうして詩に見えるのか、詩だと言い張れるのか、それを今回は考えていきたいと思います。

 

 そのためには、レトリック(修辞法)というものを念頭に置いてもらうと分かりやすいです。
 体言止め・倒置法・対句とかいうやつですね。
 別に、「おおーっと! 藤夜選手! ここで体言止めを繰り出したぁ!」とか脳内でやってないですし、普段体言止め使おう、とか考えてないです。何か勝手に出てます。
 ので、名前とか覚えてなくて良いです。私は右脳だけで生きていきたいの。

 

 まあ一応、一行ずつ解説していきます。


「人生で初めてのずる休み。」は、体言止めですね。名詞で終わる、っちゅーやつです。よく余韻が、とか国語の授業だと説明されるやつです。そんなもん知らん(国語科の教免を持っているのですが、国語が嫌いです)。
 とあるライトノベルは、体言止めが多用されすぎていて鬱陶しい、と知り合いに非難されていましたが、小説とかだとワンポイントテクニックに用いられるので、多用が嫌われます。


 でも、詩だと全部体言止めでも良いんですね。

 

 孤独な僕。
 人気な君。
 すれ違った価値観。
 募り続けた嫌悪感。
 それが、結ばれた理由。

 

 うーん、習作のくせにやりおる。良い出来だ(あからさまな自画自賛)。
「最初の爽快感と、つきまとう罪悪感と。」は、対句ですね。ただ、漢文とかで見かけるようなものほど、今回は丁寧に組んでいません。むしろ、ちょうど上に書いた奴の方がよっぽど対句としてはしっかり作っています。

 

 

 ここでてぃーぶれいく。

 私はもともと、小説家になりたいと志して物書きを始めた人間なので、今でも詩に句読点が見えるなど、現代詩人の中ではそこそこ特異な方面にいる人――なんじゃないかと。違うかもしれないけど(保険をかけるのは大事)。

 小説の技法を学ぼうと参考にしたのは、かの有名な西尾維新先生です。だから対句が好きなんですよね。あの人、言葉を並べるの好きだから。

 詩人になりたいと思ったのは随分後のことです。というか最近?
 なので、別に詩を書きたいからって真っ先に詩をたくさん読まなくたって良いと思います。
 極論、高校時代にノートの端っこに書いた痛いポエム(笑)をそのまま公開したらオッケーだ!

 

 

 さあ、「でも、今から行くかと聞かれたら。僕は答えるよ。願い下げだ、って。」の部分については、問いかけ、と私が思っているやつです。名前とか特にない気はする。というか私作家になるための学校とか行ったことないので、その辺りはあったとしても知りませーん。
 ねぇ、とか、うん、とか呼応の表現も、詩では強いですよね。
 それこそ、

 

 ねぇ、あなたの声が聞きたいの。
 耳元でそっと愛を囁いてほしいの。

 

 みたいな、中学生くらいが横恋慕の相手を想って創り上げた黒歴史でよく見かけますね。くそう、今からでもあの頃渡したラブレターを回収したいぜ! 参考にするんだ!

 

 さて、ここまではレトリックの話です(倒置法とか他にもたくさんありますけど、必要に応じて随時説明します)。

 

 次に見た目の話に入ります。

 

 私は林檎を落としてしまった。最後の一つだったのに。すぐに拾えば良いのに、手を伸ばす気になれない。落ちた林檎は、もう違うのだ。無傷の林檎とは違うのだ。見た目も味も同じでも、私の心の中では明らかに違うのだ。

 

 これは詩っぽくありません


 ライトノベルなんかは特にそうですが、改行がたくさんありますね。本来、改行は意味のまとまりが切れる(段落が変わる)ところで使うものです。改行だらけの評論が無いのはそういうことですよね。
 小説は流れだ、と私は思っています。ストリームなり。
 でも詩とか韻文は、リズムなんですよね。
 タン、タン、タタンみたいな。
 節付けて歌ったりするものもありますから(それこそ歌詞ですよね)、流れ続けたら困るわけです。

 

 私は林檎を落としてしまった。
 最後の一つだったのに。
 すぐに拾えば良いのに、手を伸ばす気になれない。
 落ちた林檎は、もう違うのだ。
 無傷の林檎とは違うのだ。
 見た目も味も同じでも、私の心の中では明らかに違うのだ。

 

 小説で書くなら、この改行は嫌われます。まあ私はよくやるんですけども。
 ついでに、句読点も省いてしまいましょう。私は句読点が好きなので、残しているものも多いです。ストーリー仕立ての詩なら、あっても不思議ではない気もします。
 教科書のは無かったぞ、と言い張りたい方は、句読点はゴミ箱に入れたら良いと思います。

 

 私は林檎を落としてしまった
 最後の一つだったのに
 すぐに拾えば良いのに 手を伸ばす気になれない
 落ちた林檎は もう違うのだ
 無傷の林檎とは 違うのだ
 見た目も味も同じでも
 私の心の中では 明らかに違うのだ

 

 詩っぽいですね。iPhoneで書きたい方は、ぜひ全角スペースを入力出来る方法をご用意下さい(私は規則を重んじたいタイプなので、ちゃんとした文章で半角スペースは使うべきでないと頑固ジジイみたいなことを言います)。
 句読点を省くついでに、句読点がない状態で綺麗に見えるよう、多少手を入れました。「違うのだ」を揃えた印象でしょうか。
 この辺りの調整は私もまだ勉強中です。

 

 私は林檎を落としてしまった
 最後の一つだったのに

 すぐに拾えば良いのに 手を伸ばす気になれない

 落ちた林檎は もう違うのだ
 無傷の林檎とは 違うのだ

 見た目も味も同じでも
 私の心の中では 明らかに違うのだ

 

 最後に、(れん。詩における、セット、ひとまとまりのことです。この詩だと、全部で四聯になります)に分けてみました。この分け方にも個々人の好みが出ます。バナナはおやつに入るのか、それはあなた次第
 聯に分けると、必然的に行間が開きますから、より目立ちます。
 サイズを大きく出来ない、フォントも変えられない、色も付けられない正統な詩において、聯に分けるという作業は、人間の視覚に訴えかけられる、数少ない有用な手段と言えるはずです。

 

 さて、ここまであなたの書いた作品が詩らしく見えるよう、色々と魅せ方を考えてきましたが、まあ要するに、一番美しく映える角度を探す、自撮り好きの女性のように、一番美しく魅せられる姿を探してあげましょう、ということです。

 

 ただ一つ、これは覚えておいていただきたいことがありまして。
 レトリックにしても、改行とか聯分けとかにしても、実は最後のブラッシュアップで吟味することです。
 もちろん、書きながら考えることも大事なんですが、書き終わった後のレタッチみたいな要素を持つので、まずは自分の心を正直に書き出すことに注力したほうがいいと思います。
 最初から畏まって書くと、途中で嫌になります
 多分、詩が難しいと思う人は、いきなり線画を描こうとする人です。まずはラフを描くのです。そして、これだな、と思えたら、綺麗に清書するのです。
 慣れたらいきなり線画も行けるかもしれませんけどね、そりゃあ。

 

 今回はこの辺りにしましょう。
 次回はそうですね、言葉選び、と題してやりましょうか。
 それでは、次もお付き合いいただけたら幸いです。