夢って遠いね

ほっと一息つきたいあなたに、ささやかな憩いの時間を。

Re+ "LuLLaBy"を読む

 好評の企画になるなどと思わなかった。

 元来、文筆をする者は読んでもらいたい生き物なのだから、至極当然と言えば当然なのだが、よく考えてみれば、このように感想以上の考察を得るような機会も多くはない。

 これが何らか喜びのある企画として受け止めてもらえるなら、実に喜ばしいことだ。

 

 前置きが長くなった。

 今回見ていくのは、 Re+(れたす) (@k7na7na8se) | Twitterの作詞した歌詞だ。

Re+と書いてれたすと読むのだと当人は言う。あのキャベツと見紛う緑の野菜である。

 彼女にはぜひ、シャキシャキした人として、これからも瑞々しくあってもらいたいものだ。

 

今日も この世界の どこかで
悲しみの夜に 溺れる君へ
君の 心の叫びは いつも
この夜空まで 響いているよ

どうしようもなくて
どうにもならなくて
発狂しそうな今を 君は 生きている

どうにか変えたくて
手を出してみるけど
自分の非力さに 君は 嘆く

白銀の 髪を なびかせ
この唇で 歌を 紡ごう
闇夜に紛れる 子守歌を
そっと 包み込む 愛の歌を


今日も この世界の どこかで
泣き疲れ夜に 眠った君へ
君の涙は 光を 浴びて
いつか 絶対に きらめくはずさ

変えたいのは未来 でも
変わらない現実
『一般化』された今を 君は 生きている

誰もが『前ならえ』
独りを毛嫌って
我先にと掴む 既存の 定義

金色の瞳 見つめる
この歌声が 届くところを
闇夜に紛れた 子守歌で
君を 安らぎへ 導きたい


無数に 瞬く 星の数だけ
泣いて 泣いて 泣いている
その心に この歌よ 伝え

一つの 大きな 未来のため
飛んで 飛んで 飛んでゆけ
その心に その希望に この声を 奏でる


濃紺の 服を 纏って
この髪も 瞳も 隠そう
闇夜に紛れる 子守歌が
僕の歌 じゃなくて
みんなの歌に なるように

白銀の 髪を なびかせ
この唇で 歌を 紡ごう
闇夜に紛れる 子守歌を
そっと 包み込む 愛の歌を

いつか 歌い継がれる日を 夢見て

http://lyrics.minna-no.jp/lyrics/view/114774より

 

 一聯ずつ見ていこう。

 

今日も この世界の どこかで
悲しみの夜に 溺れる君へ
君の 心の叫びは いつも
この夜空まで 響いているよ

 

 なるほど、舌が唸る。「悲しみ」というワード一つで、私は唾液が分泌されるのを感じる。

 舞台は夜。それも、「悲しみの夜」。それは感情のうねりとなって、「溺れ」させてしまう。

 そんな中で放った「心の叫び」は、「夜空まで響」くのだ。

 このリリックを書き記す存在は、そんな「夜空」の住人なのだろうか。

 

どうしようもなくて
どうにもならなくて
発狂しそうな今を 君は 生きている

 

 私のことを言っているのだろうか。と思わせた時点で、この聯は執筆者の目的を果たし得ているだろう。「発狂しそうな」と過激な表現を使うのも、ここでは平易な表現を引き締める役割を持っているように思う。

 この歌を聞くべき対象者が、この時点でゾーニングされていることも分かりやすい。

 

どうにか変えたくて
手を出してみるけど
自分の非力さに 君は 嘆く

 

 前聯で「どうしようもなくて」「どうにもならなくて」とDO音を続けたのを受けて、「どうにか変えたくて」が続く。

 前聯は無力感が漂うが、本聯では打開しようという力強さが見え、聯を挟んで「君」が対照的に映し出される。

 だが、そんな努力もむなしく、「非力」な「君」は「嘆」かざるをえないのだ。

 ここまでで、「君」の現状は十分に示された。そしてこの先、サビはそんな「君」を救ってくれる。

 

白銀の 髪を なびかせ
この唇で 歌を 紡ごう
闇夜に紛れる 子守歌を
そっと 包み込む 愛の歌を

 

 先に見た「夜空」の住人は、「白銀の髪」の持ち主。それが「なび」いたシーンが映ったかと思えば、「歌を紡」ぐ「唇」が、「この」という指示代名詞によって焦点化され、そこに一気にカメラが寄る。女神のような優しい人物の口元がクローズアップされる姿を思えば、どこか艶やかな印象も抱く。

 彼女がその唇で「紡」ぐのは、「子守歌」だ。タイトルのLuLLaByは、ここから取っていることが分かる。

 この聯の後半二行は、同義反復だと考えられ、「闇夜に紛れる」が「そっと包み込む」に対応し、「子守歌」が「愛の歌」に対応する。

 歌の紡ぎ手は、「悲しみの夜」を癒すのに相応しい、押し付けない優しさを与え、「君」を救ってくれるのだ。

 

 

今日も この世界の どこかで
泣き疲れ夜に 眠った君へ
君の涙は 光を 浴びて
いつか 絶対に きらめくはずさ

 

 二番へ入ろう。

 導入は同じであるが、「悲しみの夜」に「溺れる」内、「君」は「泣き疲れ」て「眠っ」てしまう。一番から二番では、時間の推移が把握されよう。

 その目からは、「涙」が流れているのだが、それが「光を浴びて」「きらめく」という。

 この「光」とはどういったものを意味するのだろう。月明かりなのか、人工の光なのか。

 これには、「きらめくはずさ」と述べる女神めいた存在の居場所を考えれば、答えが出よう。そう、彼女の居場所は「夜空」だった。すなわち、ここは月明かりが正しいだろう。であれば、これは「光を浴びて」とは言うものの、「夜空」の住人たる彼女が差し込ませるものとさえ見られなくない。

 まさに「君」を慈しむような、深い慈愛の念を感じる。

 

変えたいのは未来 でも
変わらない現実
『一般化』された今を 君は 生きている

 

 二番の二聯目でも、やはり「君」の無力さが歌われる。

 ここでの「君」という人物は、変化を望み、今に抗おうとしている。それは「未来」を「変え」ようと欲する姿勢に現れるが、その目の前には、「現実」が姿そのままに横たわっている。その「現実」とは、「『一般化』」――つまり、どこにでもあるような、判を押した大量生産のそれだ。

 ありふれた「今」を打破したい、でも叶わない、そんな葛藤が見える。

 ここで二重カギ括弧が用いられているのは、「君」の人柄を示しているように見受けられる。「一般化された今」ではなく、「『一般化』された今」とあるのは、少なくとも自分にはそう思われている、と断りを入れているようなものだ。そこには、強く出ることの出来ない、「君」の気弱な部分が見え隠れする。

 

誰もが『前ならえ』
独りを毛嫌って
我先にと掴む 既存の 定義

 

 三聯目は、一番の三聯目と異なり、「君」一個人の動きは見られない。むしろ、「君」のような大多数が生きる、この歌における世界観が見て取れよう。

 この世界では、「君」のみならず「誰もが『前ならえ』」する。ここでの二重カギ括弧は、先ほどとは意図が異なるだろう。比喩表現であることを強く意識させるほか、囲い込むことによって、その愚劣さをより強調させる狙いがあるように思う。

 この「独りを毛嫌って」というのが、まさに「君」が見せたような気弱さの内実ではないだろうか。

 そんな「誰もが」、「我先にと掴む」という「既存の定義」とは、まさに安寧であり安定であり、そして定まったがゆえに「変わらない」、停滞の象徴である。「君」の望む変革は、新しい「定義」の作成にある。

 

金色の瞳 見つめる
この歌声が 届くところを
闇夜に紛れた 子守歌で
君を 安らぎへ 導きたい

 

 女神のような彼女の容姿が、また一つ明らかになる。その「瞳」は、「金色」であった。今度は目元にクローズアップが為されるが、それはそのまま「歌声が届く」「君」のもとへと移る。

 時間の経過通り、「闇夜に紛れる」から「闇夜に紛れた」となっているのは巧みだ。

 既にこの時、「眠った」「君」の耳には、彼女の「安らぎ」へ「導」こうとする「歌声」が静かに聞こえていることだろう。

 

 

無数に 瞬く 星の数だけ
泣いて 泣いて 泣いている
その心に この歌よ 伝え

 

 「君」の悲しみはあまりにも深い。涙するその数は、まさに「星の数」。「泣いて」を三度重ねることによって、その途方もない数を表そうとしているのが読み取れる。

 「伝」うと表現されているのは、伝われ、や届け、とは違う意味合いを持たせてのことだろう。何かを介しながら、という印象を抱くが、これは「君」が一人ではなく複数いて、そうした「君」の一人一人の「心」を伝っている様が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

一つの 大きな 未来のため
飛んで 飛んで 飛んでゆけ
その心に その希望に この声を 奏でる

 

 「変えたい」と望む「未来」があるのなら、「飛んでゆ」くべきだと彼女は言う。その「声」は、単なる「歌声」にあらず、「奏でる」と記されている通り、楽器の音色の如く、人間以上の存在が生み成す、旋律とさえ呼べるだろう。

 そしてそれは、人の「心」と「希望」を肯定し、閉塞した現状を打破する勇気と決意を、与えてくれる。

 

濃紺の 服を 纏って
この髪も 瞳も 隠そう
闇夜に紛れる 子守歌が
僕の歌 じゃなくて
みんなの歌に なるように

 

 「髪」・「唇」・「瞳」と来て、次は「服」が分かる。「纏」うその色は「濃紺」と、「夜」の象徴のようだ。身体のパーツが「銀」や「金」であっただけに、衣服の色によって画面を引き締める意味もあるだろう。

 さらに彼女は、目立つその「髪」も「瞳」も「隠」してしまう。

 「僕」という個人を強く主張させるパーツを「闇夜」の中に沈ませることによって、「子守歌」は真の完成を見る。それはさながら、誰の作詞だ作曲だということを忘れ、皆の口の端に自然と上るようになった数々の子守歌が、その個の喪失によって、私たちを安らかな眠りに誘ってくれるのに似ている。

 人を超えた存在だからこそ出来る、献身的な愛の形がここにある。

 

白銀の 髪を なびかせ
この唇で 歌を 紡ごう
闇夜に紛れる 子守歌を
そっと 包み込む 愛の歌を

いつか 歌い継がれる日を 夢見て

 

 ところが一転、「髪」が暗闇から現れ、印象的な「唇」がまた姿を見せる。

 末尾の「いつか歌い継がれる日を夢見て」とは、この歌詞において、実に人間的な願望のように映る。

 そう、ここで我々は、女神のように見えていた彼女が、女神になろうとしている一介の人間であったことを知るのだ。

 捨て切れない「個」が見えるところに、強い人間性を感じる。

 彼女の「子守歌」はまだ、誰もが愛し子のために自然と口ずさむようなものには、至っていない。

 どのような子守歌もそうであったように、初めは歌い手の個性が強く想起されたように。

 

 

 歌詞全体に目を向けるため、私は一度背筋を正す。

 そうすると見えてくるのは、「夜空」の住人に〝なろうとしている〟彼女もまた、「君」の中の一人ではないか、ということだ。

 彼女にとってもまた、この世界はままならぬものであり、「君」のような人たちが、涙しなくて良いような「未来」を願ってやまないのだろう。

 誰かを励ます歌があるとして、それは痛みに無縁な者が歌うこともあるけれど、やはり、同じく痛みの渦中にある者が、自らをも鼓舞するために歌ってのことであるのは、往々にしてあることだ。

 この歌はまさに、現実に阻まれる者たちが、「飛んでゆ」けるように願った、自他共に向けて贈られた、愛おしいメッセージなのだ。

 

 

 今回、初めて歌詞を考察した。

 考察の態度としては、私は前から一行ずつ解釈していく手法であり、歌詞全体を読んでから、一行ごとに解明していく方法は取らないが、それは出来るだけ、初読の読みを大切にしたいが故である。

 国語の授業ではおそらく0点の解き方だが、私は初めての驚きと疑問を大切にしたい。繰り返し読むことで得られる感動と発見もまた、魅力あるものだが、私はどうにも、前へ、前へと進みたい性格なのだ。

 

 作詞は番を跨いでの対句など、学ぶべき点が実に多くある。

 今宵もまた、美味なる食事であった。

 

 次の食卓には、どのような皿が乗っているだろうか。

camelを読む

 めでたいことにシリーズ化することが決まったこの企画。以後、藤夜アキの詩喰と記してやっていこうと思う。

 

 そんな二回目はcamel (@kaerutorakuda) | Twitterさんの詩を喰らおうと思う。

 

 彼女は不思議な空間を作り上げる達人だ。以前、「キリン」という小説を読んだが、部屋にキリンがいるのである。謎である。しかし何故か文章が頭に入ってくるのである。

 

 

 

 彼女独自の詩のタグ、安楽詩だ。

 その名の通り、静かに命を終えられそうな優しさを湛えている。

 教科書を開くと載っていそうなひらがなの柔らかさを感じる。しかし、これは教科書には載せられないだろう。私は載せてほしいのだが、明るく牧歌的なものばかり載るので致し方ない。

 さて、冗談もさておき、詩を見ていく。

 まずやはり目を惹かれるのは、「ゆるっと」「くらっと」「ぬるっと」「べちゃっと」「さらっと」「するっと」の言葉選びだろう。

 落下の説明は、「ゆるっと」でありながら、「くらっと」なのだ。目眩がしたかと思うと、それに身を任せて落ちていく。どこからどこへ落ちるのだろうか。私はつい、イラストにあるような真っ白い空間を落ちていくように思う。そういえば彼女、絵も嗜むのだ。

 さらに「わたし」は「ぬるっ」と「つぶれる」。落下した先、底面に打ちつけられて、だろう。「ぬるっと」潰れるとは何なのか。これはおそらく、「べちゃっと」いうような潰れた瞬間の描写というよりは、潰れ出たものの体液を意識した表現ではあるまいか。まずそれが沁みだし、最後に潰れきる。悍ましくも美しい、そう思わせるひらがなの柔らかさである。

 そうして落下した「わたし」は、「さらっとするっとながれ」る。このあっさりとした感じが良い。藤夜アキならここでぐだぐだ伸びるのである。自分の心を垂れ流すのである。流すどころか流れてしまって、はいおしまい。

 実に美しく、「わたし」はこの世から溶け去ったとでも言うべきか。三組で完結させる勇気というものを、私も見習っていきたい。

 

 

 

 冒頭から目玉が飛び出る。「いっしゅんだけ」眼球を「落とした」のだという。落ちるものなのだろうか。これがcamelマジックとでも言うべきものだろう。私たちの脳裏には、しっかり落とした眼球が目に浮かぶのである。目、落としてるけど。

 その「めだま」はあっさり「ひろ」えてしまう。驚くふしもない。よくあることなのだろうか。

 いやむしろ、「つぶれたひとみ」とあるのに読み手が驚かされてしまう。どうやらこの目玉、その一瞬で大きく傷んだらしい。

 締めくくる言葉は、「いちやでういたふたつのれんず」であるが、漢字に直せば「一夜で浮いた二つのレンズ」となるだろう。レンズとは、コンタクトレンズのことだろうか。それとも、人の眼球にあるレンズのことだろうか。浮くものだから、コンタクトと読んでおく。

 さて、この詩が浮かび上がらせるものは何か。

 「いちやでういた」という言葉には、あまりのことへのショックと悲しみが見えるように思う。冒頭の「いっしゅん」と呼応して、刹那の出来事を際立たせる。

 せっかく用意したコンタクトレンズが、「つぶれたひとみ」にはもう上手くハマらないのである。それもそのはず、あれは真っ当な眼球にしっとりと添うものだからだ。

 到底起こり得ないような「めだま」を「おとす」という事件は、そのままに読み取る以上の想像を許されるなら、コンタクトレンズを付けるという美意識の変革を目指した詠み手が、見事に希望を打ち砕かれたことを意味するのではないか。

 メガネを厭ってコンタクトを付け、愛しいその人のもとへ変わった自分を見せようとした。けれども、目の前には受け容れがたい事態が起こっていた。だから私は驚きのあまり、「めだま」を「おとし」てしまったのだ。「つぶれたひとみ」は、落下の衝撃以外のダメージも食らっていた。

 最早希望のレンズは、その瞳には戻らない。

 短いながら、幾多の物語を裏に潜ませた詩だといえるだろう。詩の持つ、行間の効用を大きく活かした作品だと読めた。

 

 

 

 今回取り上げた中で、最も私の心に「突き刺さった」のがこの詩だ。

 藤夜アキ好みの「抜かないでいたの」という女性的な文句に始まるこの詩は、物騒な言葉と可憐な言葉が同衾して、魅惑的な世界を創り上げる。

 何が「突き刺さったまま」なのだろう。私はすぐにナイフを想像してしまうからいけない。

 もう少し後ろに目をやれば、「花咲く日を夢見て」いたという。これは、「刺さった」対象物が「花咲く」という理解で良いだろうか。否、それではまずいだろう。

 この詩において重要なのは、「刺さった」側ではなく、「刺さった」ものなのだ。

 「抜かないでいたの」と「抜けなくなったの」とで二度表れる、抜くという表現は、私たち読み手を「刺さった」ものへと視線を誘う。

 ならば、この詩の主題は「刺さった」ものに他ならない。

 「抜かないでいたの」というのは、詠み手がそれをいじらしく感じている証拠だろう。

 それはどうやら「花咲く」類のもので、同時に「腐りゆく」類のもの。素直に花の類と見るかどうか、私は頭をひねる。

 今、一旦素直に言葉を受け止め、花の何某と理解しよう。

 刺さるような花であれば、花茎はそれなりに硬いだろう。薔薇のような花であれば、それも可能だ。

 まだ蕾のそれが、ではどこに刺さるのか。

 やはりそれは、この詩の詠み手ではないか。「刺さ」るという強烈な言葉がかきたてるものは、対象を人間と見做させると思いたい。

 今仮に、「私」という主語を詠み手の人称に用いるなら、この命の輝きに満ちた蕾が、私の胸元辺りに突き刺さる。

 私は「花咲く日を夢見て」、希望に胸を膨らませた。「ただ待っていた」という言葉には、じっとその日を待つような、私のいじらしさが見える。

 しかしそれは、無惨にも「腐」っていく。致し方のないこと。花は、本来あるべき場所にないのだから。

 それでも、「腐りゆく」様は、私にとっては美的肯定感を以て受け止められたに違いない。

 始め「抜かないでいたの」と受動的だった姿勢が、最後には「抜けなくなったの」と積極的な姿勢に変わっている。

 私は、期待していた以上のものに出逢うことが出来たのだ。

 通例美しいとされる「花咲く」状態以上に、慈しむことの出来る状態を知った私の発見と喜びを、彼女に出来る最高の形で切り取った、それがこの詩の真髄ではないだろうか。

 

 

 以上、camelワールドを僅か三篇ではあるが満喫してきた。

 素朴な言葉、やわらかい表現を用いながら、イラストのような奥行きのある世界を構築するその力、しっかりと喰らわせてもらった。

 

 さあ、得た栄養は、詩作の喜びに還元しようか。

黒羽黎斗を読む

 彼はつい最近詩を詠み始めたという。なるほど、時空的にはそうなのやもしれない。けれど、どうやら彼は前世から詩を書いていたらしい。そう考えないと可笑しい。


 そんな冗談はさておき、彼を読む中で、私は彼の良きところを盗みたく思う。私は貪欲なのだ。私に無いものは全て得たいと思う。見境などなく、今回、彼を喰らおうと思う。

 

 それでは、いただくとしよう。合掌。

 


 詠み手は獣なのだろうか。

 しかし酸によって剥げ落ちたその毛も、大地には還らないなどと、虚しいことを言う。

 毛に着目する前聯に対して、複雑難解な後聯がやってくる。

 フィルタリングが始まることによって、真実というありのままは消えてなくなってしまう。

 しかも、そのフィルタリングはどうやら手の内を見せないようだ。何が弾かれ、何が残るというのだろう。

 そしてまた前聯に戻ろう。この酸こそ、私という体毛そのままの姿から、人間という表向きの姿を見せつけるフィルタリングなのではないか。

 ならば酸とは、私たちが人間を装うために用いたしがなさを意味するのかもしれない。

 

 私たちが人間という当たり前を前提から覆す詩だと読めるのではないだろうか。

 

 

 

 まず目を惹くのは、下がってゆくに連れて減っていく文字数だろう。不徹底なように見えるのは、本人がそこを強く意識せず、結果としてこうなったことを意味するのだろう。

 「女」と「音」と「馬鹿」と「文字」が躍るのだというが、これらはいかなるグルーピングによってここに表れたのか。同列ではないだろう。抗議団体がデモ行進しかねない。単なる羅列と見ることも出来るが、藤夜アキではあるまいし、それもないだろう。

 自分を構成する諸要素だろうか。私は彼を彼と認識していたが、自身の女性性を言うのかもしれない。あるいは、自分の身の回りにあるものという可能性もある。

 続く「結局」という文字によって、これらが肯定的には捉えられていない印象を与える。ならば、その後の「偶像崇拝」も彼は厭いつつ行っているのやもしれない。

 雪と林檎の対照は、色の対比からの詠みだろうが、私としては雪に白を添えないのであれば、林檎にも赤を添えない。だがしかし、このアシメトリを美とみることも出来る。私が喰らうべきは、そういう可能性だろう。

 「林檎の末路」とは何か。前述の「雪のような」から想像するに、儚い終わりだ。さらに「手の甲から滴」るというのだから、腐りゆくのとも異なるだろう。自然な雪解けではなく、人の手に触れると解けるが如く、人の手による終わりと読もう。

 それが「目を開かせ」て「光らせる」という。HIRAKASEとHIKARASEの音の遊びには舌を巻いた。やってくれる。

 そして全体に考察を還元すれば、当初厭っていたはずのグループを、それでも彼は肯定的に受け止めている。詠み手もまた何かを信じ、そこに光を見出したのだろう。

 

 厭世的なものの見方の中に、それでも生を容認しようという力強さを感じさせられる。

 藤夜アキにない、生きることへの力強い意志だ。

 

 

 

 いきなりコンパスと物差しが愛し合う。こんなもの反則である。まさかの熱愛報道発覚に読み手はやられてしまう。

 しかしモノはモノである。星は図形として描けども夜など知らず、騙されることもなく、もちろん学ぶこともない。唐突にモノだと言われて、ようやく二人の愛を容認しようという気になった我々は唖然とさせられる。右頬の次は左頬を差し出せと言われた気分である。

 次の聯は、お互いの言葉だろうか。カギ括弧に頼らない台詞の表記は、「あなた」に始まる呼びかけによって表されている。「空を滑り飛ぶ」のは物差しだろうか。確かに机から滑空する。「妨げる岩々」というのが釈然としない。コンパスにそのような役割が生まれたのだろうか。それとも、物差しは浮気していたのだろうか。

 と思いきや、「食い違う真実」が四聯目で明かされる。モノでしかない彼らは、「嘘」などでは「固ま」るはずがない。この四聯目のみは、詠み手の主体が別になっており、語り手と覚しき存在が現れている。神の視点が姿を垣間見せる辺りに挑戦的な試みを見て取れる。

 すれ違う二人は、在りし日を「顧みる」。「針と端の羞恥」は、また言葉遊びである。しかしこれにより、冒頭の滑稽にも思える書き出しが、コンパスを使う際に、まず必要な長さだけ両肢を広げさせるために物差しを併用することを意味させるのである。

 しかしその接触はあまりに束の間。刹那の逢瀬は、まさに「諦めを産むもの」なのだろう。

 

 モノのあり方を人のそれになぞらえる見立ての手法として、実に興味深い作品である。日常的な二者による共演というものも、詩を身近なものに読ませる秘訣だろうか。

 

 

 今回は三篇の詩を考察してみた。五篇ほどやろうかと思っていたが、かなり濃厚で腹持ちが良さそうなため、ここで箸を置く。美味であった。

 まさに詩人である。

 藤夜アキが書くと、チラシの裏の落書きになる辺り、彼の詩才がよく分かって袖が濡れる。

 

 彼を見習って、より多くの詩を書いていこうと思う。

この10年を振り返って - 藤夜アキ NEXT 10 YEARS PROJECT

こんばんは、藤夜アキです。

今年、2019年は、私藤夜アキが創作を始めてから10年になる節目の年です。

もともと文章自体はもっと前から書いていたのですが、小説家になりたい、と心に決めて物書きを始めたのが2009年のことでしたので、私の物書き人生の始まりは2009年に設定しています。

さて、今年は藤夜アキ NEXT 10 YEARS PROJECTとして、次の10年に繋がる活動が出来るよう、様々に動いていきたく思います。

差し当たってその第一弾として、この10年、私が書いてきた創作の様を、色々と振り返ることにします。

とても長いです。過去の作品の一節を引用しつつになるので、とーっても長いです。

 

2009年(15歳)

 

中学三年生の頃です。この頃まだパソコンに触れることはなく(家にはありましたが)、文章は手書きでした。

 

f:id:Tohya_Aki:20190114015934j:image

今から思えば恥ずかしい中身だけれど、何を恥じることもない、大切な始まりの作品です。

 

もともと海外の児童文学が好きだった私は、「ハリー・ポッター」シリーズや「ダレン・シャン」シリーズ、「デルトラクエスト」シリーズや「ウォーリアーズ」シリーズ、「ナルニア国物語」シリーズなど、様々なファンタジー要素の強い作品を読んで育ってきました。他にも寺村輝夫斉藤洋の児童文学にも触れ、お話や物語というものが、私の文学の中心にありました。

なので、2009年より前のものは、物語に該当するものを書いていました。

そんな中、2007年から2008年にかけて、アメリカの名作家、スティーヴン・キングの「ダーク・タワー」シリーズに出逢ったことが、私を物語から小説の世界へ導くきっかけとなったように思います。

今も昔も、私はあまり小説らしい小説に興味がありません(身も蓋もないな)。

本を読むのは好きだけれど、小説のコーナーに置いてあるようなものが、私の興味の外なのは、よく考えれば自然なことなのかもしれません。

 

さて、さっきの写真の作品は、戦国の世からやってきた武家のお姫様が、現代の少年たる主人公と共に、お姫様の家を乗っ取った家臣を打ち倒す、というファンタジー色の強い作品です。妖刀とか必殺技が出てきますが、これを生み出すきっかけとなったのが、『週刊少年ジャンプ』との出逢いでした。

当時、私は漫画というものを一冊しか持っていませんでした。そう、「遊☆戯☆王」の15巻です。なぜか15巻だけです。

あまりにも読むのが早すぎて、そうおいそれと買ってもあげられない、という理由から、我が家では漫画の購入はほぼありませんでした。

それが、ようやっとこの頃緩みだし、週刊誌に手を出すことが出来るようになったのです。

ジャンプという新世界は、まさに私にとってのネタの宝庫。

厨二病全開のこの頃、私はスポンジのように少年誌の世界を吸い取っていきました。

また同時に、ライトノベルを知ったのもこの年でした。塾で知り合った友達が、私にラノベを教えてくれたのでした。

その記念すべき一冊目は、「聖剣の刀鍛冶」。今思えば、まだ当時はラノベの世界も今ほどの柔らかさはなかったような気がします。

少年の心は、一気にファンタジーバトルものへと移っていきます。

 

そうして、私が初めて書き上げたこの作品は、なぜか3年2組の教室中を回ることになったのです。

おかしくね!?

と思いつつ、私はとても満たされていました。

メンタルは鋼の如しだったのです。

当時ペンネームがあったのかと探ると、どうやら無かったらしく、作者名には本名が書かれていました。

当時最大の記憶が、文学少年、とでも言うべき、小説が大好きなH君の言葉でした。

「状況の描写がなさすぎて伝わらない」という言葉は、それからの私に重くのしかかることになるのです。

この年の作品は、この一本限りです。

 

2010年(16歳)

 

この年の3月、私は初めてWordを使って小説を書くことになります。

残念ながらファイルは残っておらず、それもそのはず、私はファイルの管理のやり方さえ知らなかったのです。

印刷した作品はどこかにあるはずなのですが、なにせ9年前。今のところ見つかっていません。

 

そして4月、私の未来を決定づける出逢いがあったのです。

高校の文芸部。

そここそ、今の私が生まれる最大のきっかけとなった場所です。

文芸部というと、読むところと書くところ、二種類あるらしいのですが、私の出逢った文芸部は、書くところでした。

今の私の執筆の根幹は、全てここで培われています。

ですから、ここで文芸部に出逢っていなければ、今の私は文章を書いてはいたとしても、今のようなスタイルでの創作は出来ていないはずです。

文章の書き方を学び、身近な創作仲間を得て、私は物書きとしての人生を本格的に歩み始めました。

 

しかしここで、私の作風は大きく転換します。

ファンタジーから、今の恋愛小説へ移ったのです。

日本人の作品は、どんなものでも恋愛が絡みます。どうやら私は、その恋愛の要素が特に好きだったようなのです。

しかし私は、当時恋愛小説も少女漫画も読んだことがなく、参考にしたのは、微かに記憶の残る、小学校六年生の頃に読んだ、青い鳥文庫のとある作品でした。名前が思い出せないのですが、その微かな記憶を辿りつつ、また男が恋愛小説を書くなんて、という偏見から、女性の名義を名乗ります。

 

その名義で実際その後数年間活動しており、また藤夜アキとは別人であるとしてしまったことから、現在においてもこの名義は公開していませんが、この名義だからこそ書けた作品というものも確かにあると思い、今でも大切に思っています。

 

 暖かい春の日差しが眩しい正午過ぎ。町外れの大きな一軒家の庭で、二人の若い女性が洗濯物を干し終え会話していた。

 一人は金髪に青い瞳をしていて、背が少し高かった。スタイルがよく、町に買出しに出ればすぐさま男たちに声をかけられるほどであった。しかし彼女には理想の男性像が確立していたため、そのどれもに見向きしなかった。

 もう一人は栗毛に赤い瞳をしていて、背丈は一般の女性ぐらいであった。先ほどの女性と比較すると容姿はやや見劣りするが、それでも十分に美しかった。

――「二人の王女」(2010.8.19)

 

当時の書きかけの原稿を発見しました。

この頃はまだファンタジー色から恋愛色への過渡期にあったらしく、描こうとしているテーマからはその中間色を見出すことが出来ます。

 

この夏、文芸部の発刊する雑誌に処女作を公開したのですが、それは明確に恋愛小説と打ち出したものでした。夏の終わりのことです。

なぜかスパゲッティの作り方をゼロから書いた名作中の名作でもあったのですが、それを原点として、藤夜アキは本格的に今のような活動を始めていきます。

別名義ではあるものの本体は同じなので、これも藤夜アキの記録の中には含めるというややこしい感じです。

 

当時、M君という既に出来上がっているような文才を持つ仲間がいて、彼は顧問の寵愛を受け、間違いなく華々しい道を進んでゆくように見え、私は果てしない憧れを抱いていました。良き友でもあり、乗り越えるべき壁でした。

彼が絵を描けたことも、私にとっては今の自分のあり方を考える上で、どうしても抜きには語れない存在だと思います。

しかしそんな彼は、唐突に部を辞めるのです。理由は直接彼の口から聞いてはいませんが、自らの才能の限界を悟った、そんなふうに風の噂で耳にしました。

それから、私は彼がいなくなったことで、部での存在感を獲得し、部を掌握する動きに出ることになるのです。

 

この年には既にツイッターを始め、またブログ等でも精力的な活動を始めていました。作品の多くは印刷したのですが、いかんせん管理がガバい人間のため、しっかり残してはいません。どれがこの頃の作品なのか、主要なもの以外は覚えていないのです。

 

この頃はライトノベルに本格的に触れるようになり、「涼宮ハルヒの憂鬱」や「バカとテストと召喚獣」など、大御所の作品を本格的に読み始めます。

ラノベの要素を多く取り入れ始め、今に繋がる下地を作っていた頃でした。

 

2011年(17歳)

 

高校二年生になった私は、本格的に部の掌握を図ります。

自分が成長出来るための場所、として使い切ろうと考えたのです。

当時の文芸部は、圧倒的に掛け持ちの部員が多く、文芸部のみに所属する数少ない部員である私の発言力は、実に大きいものがありました。

その甲斐あって、私は部長の役職を引き継ぐに至ります。その大いなる野望は、翌年ついに果たされることになるのですが、この頃はまだ、本性は隠していました。

 

この年からは、さらに本格的に創作が始まります。

記録に残る最初の詩作も、2011年からです。

また前年の末に、女性名義だけでやっていくことにも無理を感じ、男性名義で藤夜アキの直系の先祖にあたる、Soir名義が生まれており、ここでの創作も本格的に始まりました。

 

今日あったつらいことを日記に書くより、

今日あった嬉しいことを日記に書こう

今日あったつらいことを話すより、

今日あった嬉しいことを話そう

そして、後になって、もう一度その嬉しさを思い出そう

 


そして、幸せな気持ちになれると、また嬉しくなって、その気持ちを紙に書いたり、話したりできるんだ

――「Happiness -short ver.-」

 

渚に浮かぶ赤い花。

あの崖の上の花なのだろう。

まだ蕾も多く残り、咲く予兆が風の便りでも伝わる。

お前はどうしてこんなところに来てしまったんだ?

そう問いかけると、独りきりの花はこうしている方が気が楽だからよ、とでも答えるように波に揺られてくらくらと動いた。

どうだい、俺も一緒に行かせてもらっても良いかな、その返事は無く。

波紋を生み出す自身の身体はじわじわと濡れていく。

ちゃぽん、と沈んだ花を追うように、俺は遠く離れる世界に手を振った。

――「さよなら水面花」

 

若々しく瑞々しく小っ恥ずかしいポエムを吐いていたのも、この頃のようです。

また同時に、今のような陰鬱とした自分も生まれますが、今はそうした背景については、ややこしく長くなるので省きます。

 

当時の作品はiPhoneでの執筆ゆえに全角スペースが入力出来ず、長い間行頭の字下げがありません(笑)

 

2012年(18歳)

 

この年、私はついに文芸部を完全に手中に収めます。自らの望む通りに部を運営し、まさに暴君そのもののような圧政を敷いたのです。

レガシーとすべく、自分の長編作品をまるまる一冊、雑誌とは別に刷るというとんでもない所業をやらかしました。

そのおかげで、以後文芸部では、奴のような部長を出さないように、と様々お触れが出たと聞いています。

本当にあの時は、すみませんでした。

実を言うと、改革者として様々部のあり方を良くした(はずな)のですが、面白い方が良いと思ってこのように書いただけで、レガシーの件以外は、そ、それほど酷いことはしていないはずです。は、はずです。

 

名義としては、女性名義が後退し、Soir名義が前面に出ます。

初の長編作品、「夏の夜の忘れ物」(ネットでは未公開)を執筆し、高校生活での集大成としました。

 

 私はあの夏の夜、あの丘に忘れ物をした。

 あるいは、あの場所から驚いて逃げてしまったときに、落としてしまったとも言えるかもしれない。

 好きになる気持ち。大切にしようという想い。

 トメさんが言っていた〝青春〟と、伯母の言う〝探し物〟。それらもみんな、あることを愛することから始まるんだろう。

 その行為には苦悩がついて回ることもあるけれど。

 愛することから逃げてしまえば、何も見つめられない。

 あの町を、かけがえのない仲間を、星空の下、寂しげに微笑む彼を、そして何より、そんな全てに囲まれた自分を愛すること。

 目を逸らすことなく、それらをじっと見つめること。

 たとえ辛くても、何とか耐えて、しがみつくこと。

 その先に、私の求めるものが、静かに待っているはずだから。

 

最後の部分ですが、何気に初公開です。

この時、今も一番大切な創作仲間である海咲恍先生に表紙絵を頼んだのは、昨日のことのように思い出せます。それももう、七年も前のことになるんですね。

 

 この海は、貴女の涙だ。

 ここに浮くだけしか出来ない俺は、貴女に涙を流させた奴だ。

 


 ナミダノウミ、浮き沈み。

 直に衣は水気に飽く。

 ナミダノウミ、碧くなり。

 心まで海の色に染まる。

 ナミダノウミ、重くなり。

 この痛みに引きずられゆく。

 ナミダノウミ、沈みゆき。

 七孔にどっと押し寄せるは哀。

 ナミダノウミ、泡と化し。

 今宵貴女の海に溺れる。

 ナミダノウミ、ああ一息。

 こぽと漏れた声、ゴメンナ。

 ナミダノウミ、サヨナラ。

 貴女に触れたまま死ねるなら本望だ。

 ナミダノウミ、命尽きよ。

――「ナミダノウミ」

 

小説と違い、詩はいくつかこの頃の作品を保存しています。短いことから、後に個人サイトを運営するに当たり、集成作業を行ったことが大きいと思います。

 

またこの頃、自分を大きく変える作品との出逢いがありました。

コードギアス 反逆のルルーシュ」との出逢いです。テレビでの放映自体はもう少し前になりますが、おそらく自分が繰り返し見た中で、最も回数の多いアニメになりました。

具体的に自分の作品への影響は分からないのですが、多分、何らか影を落としてると思いたい。

 

2013年(19歳)

 

二つ目の転機、大学への入学です。

それと同時に、二つ目の名義、碧海愛を名乗りました。以後、2016年まで、この名義で活動しました。

俺は歴史を学ぶんだ、国語だけはぜってえやらねえ、と意気込み、文学部へ入ります。

しかしそこで、驚愕の出逢いを果たすことになります。

和歌文学の大家の教授と出逢ったのです。

王朝の恋歌は、まさに和歌の真髄。恋愛を深く知りたいと思っていた私は、ぜってえやらねえと意気込んでいたはずの国文学へと、足を踏み入れることになったのでした。

 

好き勝手にやりてぇなぁ、所属とか締切とかめんどくせぇなぁ、と感じ始めていた私は、大学の文芸サークルには所属せず、この頃から今のような一匹おおかみを始めます。ワオーン。

 

この頃は発表場所を失ったことから、ブログで細々と執筆していたものが僅かに残るだけ。最も創作に非意欲的だった頃と言えます。

 

 死んでいる。

 とても人間とは思えない形相で、死んでいる。

 それを見て俺は、ただただ気持ち悪いと感じた。

 俺はコレをよく知ってた。

 いや、ついさっきまで、一緒にいたはずだ。

 だが、コレの取った言動を、何一つ明確なビジョンをもって思い出すことは出来なかった。

「何なんだよ、お前は」

 あまりにも下劣なものにくれてやる目を向けながら、答えもしない屍に問うた。

――「遺骸」

 

 籠の鳥は羽ばたかない。

 彼はただ鳴くばかり。

 こっちへおいでよ、そればかり。

 籠の扉を開ける鍵は見当たらず、いつまでも彼は甘い声色を叫ぶ一方。

 僕が居るだろう?

 ええ、居るだけね。

 皮肉めいた返事は、白い私から。

 世間は皆私が彼を籠の中に閉じ込めたと言う。

 彼が、籠から出ようともしないのに。

 彼の声は美しい。彼の容姿は麗しい。

 けれど籠から出ることは無い。

 私の肩に乗ることも、頬にそっと尾羽を当てることも無い。

 彼はそういう距離が好みなのよ。

 貴女は言ったわね。でも違う、彼は、籠から出はしない。

 籠の外は、優しさの掃き溜めだから。

 ねえ、こっちに来てよ。

 猫撫で声の誘いは、黒い私から。

――「籠の鳥は鳴けども羽ばたかず」

 

暗い作品も多く、自ら選んだはずの孤独でありながら、それに耐えられないでいる悲しみが随所に見受けられます。

 

それまで読んでいたライトノベルを読まなくなるのがこの頃です。

私にたくさんの作品を紹介してくれていた友人と別の大学になり、結果的に供給元がいなくなったことで、一気にサブカルに触れなくなります。

アニメもラノベも見なくなり、私は元々好きだったゲームの沼にハマっていくことになるのです。

 

2014年(20歳)

 

活動開始から5年が経った頃、大きな変革期を迎えます。

一つは、小説家になろうへの登録です。

それまでのブログでの細々とした活動を残しつつ、とりあえず形だけはやってみよう、と思って登録したことが、今の活動の素地を作るきっかけになりました。

 

 夕方。国語の宿題と果敢に戦ってたところに、突然の着信音。

 差出人は、凛くん。

 本文には猫の絵文字が一つだけ。

 件名をみると、これで出来てるか? と書いてあった。

「出来てるよー」

 同じ言葉を、返信にも書いておいた。

――「私の生きにくいカレシ」その一

 

なろうでの出発点、生きカレです。

私の看板作品たる「歌い手カレシと絵師なカノジョ」の前進であり、今の藤夜アキらしい世界観を垣間見させる、穏やかな恋愛世界。

ラノベのような恋愛でもなければ、深すぎるものでもない、すぐそこにあるような恋愛を意識する姿が、この頃には見えます。

 

ただ、なろうには登録したものの、この頃はまだなろうでの活動に本気になれず、作品の本数は多くありません。

 

実を言うと歌絵師も連載が始まっていますが、すぐに書くのをやめています。

 

 海は去年と同じ青をしていた。

 雲は去年より少なめだった。

 砂浜に人はいなかった。

 私の隣に彼はいなかった。

 嫌いになるために。

 彼にもらった全てを、ここで捨てよう。

 彼にもらった全てを、ここで流そう。

 別れたのは、私からだと思うために。

 私が彼を嫌ったから、別れたと思うために。

――「嫌いになるために」

 

やはり依然として発表場所はブログが多く、今は機能させていないこともあって、残念ながらこの頃の作品は多く埋没しています。

 

二つ目は、コミックマーケットへの参加です。

当時、高校時代の友人たちとノベルゲーム制作サークルの「のどかプラネタリウム」で活動しており、そこで作成したノベルゲームをコミケで頒布しました。

権利が一応サークルにあるので本文を公開出来ませんが、確かな分量の作品となると、この時書いたシナリオがそれに当たります。

Webデザインも担当しており、同時期にサイトを運営していました。

今はそれぞれの進路の異なりすぎから機能していませんが、実を言うと、私はもう一度集まりたいと思っています。言えば良いんだけどね、現実的じゃないかな。

 

2015年(21歳)

 

碧海愛最後の年です。

膨大に膨れ上がった(膨れ上がらせた)ツイッターのフォロワー数は、14,000人を超えていました。

ネット世界での数字というものに重きを置いた結果のことでした。

 

なろうには作品がほぼなく、まだブログで活動している頃でした。

 

 あなたのことは、今も思い出す。

 君には口に出来ないような時にでさえ、ふらっと思い返されたりして。

 そんな時君は決まってそういう瞳をするから。

 あなたが過去の人だって思える。

 相変わらずあなたには会わない。

 今はどこでどうしてる?

 綺麗だけど、幸せにはなれてないかもね。

 あなたの瞳には、俺がそう映っていたから。

 俺は随分ひどい人になってしまったよ。

 でも君には誰より、素敵な人。

 だからあなたにも、感謝しなきゃね。

 こんな俺にしてくれて、ありがとう、って。

――「ヒトミ」

 

 あなたの姿が見える。

 かつてこの瞳があなたを映したように。

 あなたの姿が見える。

 触れようとして、手を伸ばして、透明なそれにぶつかる。

 押し付けた手は、緩やかに平らになって行く。

 気が付けば私は、身動きの取れないすりガラスの中にいた。

 あなたを透明なガラス越しに見つめるだけ。

 私の望んだ、私とあなたの世界。

 でもそれは、私とあなたとの世界ではない。

 どうしてこうなってしまったんだろう。

――「in the frosted glass」

 

暗さと不安、それが私を覆っていた頃です。

今の藤夜アキを完成させたのは、まさにこの頃の精神のあり方だと感じます。

それまでは、自分の中に明るさと暗さがあり、その内の暗さにスポットライトを当てていたようなものでしたが、この頃から、暗さが自分のテーマそのものに変わります。

明るいものを書くことこそが、何か珍しいことのようになりました。

 

恋愛小説の類は引き続き書いていましたが、それはたまさかのことになります。

 

自分の一つの行き詰まりこそ、この年だったのではないでしょうか。

 

一方この年、今の私を形作る上で、決して外せない作品との、運命の出逢いを果たします。

「東京喰種」です。

恐ろしい勢いで私を染めたこの作品こそ、今の私が私たる、最大の所以です。

碧海愛という名前にも疑問を感じ始めていた私は、翌年、その作者名にあやかり、漢字+カタカナの名前で生まれ変わることになります。

 

2016年(22歳)

 

藤夜アキが藤夜アキになった年です。

この年の二月、生きカレに応援のコメントがついたことから、私の心に一つの氷解が起きました。

名義の変更と共に、今に繋がる本格的な創作活動が始まったのです。

 

この年、「歌い手カレシと絵師なカノジョ」の二日に一回更新が始まります。

一年間続けたことは、私の文章力の成長と執筆スピードの上昇に、確かな貢献をしてくれたはずです。

 

 孤独であることが、不幸だというのも。

 孤独でないことを、幸福と受け入れられる人にとってだけ。

 私にとっての安寧は、謗りの無い、静かな世界で生きること。

 一人で良い。一人でいることの出来ない人のやっかみなんて、放っておけば良い。

「ねえ、そうだよね」

 言い聞かせるように。確かめるように。

 時々、それでも自信をなくしかけることがあるから。

――「孤独な金魚の幸福」

 

 桜が舞う頃には、ふっと、あなたを思い出す。

 命が舞う度に、思い出す。

 あなたのもとに参りたいけれど、きっと、あなたの気持ちが心の底から分かるようになるまでは、それも許されないだろうと、感じているから。

 後幾度かは、あなたを偲びながら、こうして、私は微笑むのだろう。

――「紅葉の人」

 

 それでも、壊せなかった。壊せないよ。

 もう一つのティーカップ

 赤い花びらに飾られた、私のティーカップ

 あなたと私が一緒だった証だから。

 もう二度と、二つ揃うことはないけど。

 もう、二度と。

 もう一つのティーカップは。

 割れちゃったから。割っちゃったから。

――「割れたティーカップ

 

この時期からの作品は、多く小説家になろうにあります。未完結の連載がゴロゴロ転がっており、私の行き当たりばったりさがハッキリ見えてきます。

 

藤夜アキ初年ではありながら、自分の中の暗さを自分のものとして、武器に出来始めた頃でした。

暗さ×恋愛の要素を、自分らしさにして歩き始めるのが、藤夜アキという人なんだと思います。

 

前年の「東京喰種」との出逢いが、私の作品に新たな風を吹き込みます。

さらに、その中でamazarashiを知ったことも、私の方向性の決定に、莫大な影響を与えました。

 

2017年(23歳)

 

歌絵師クライシスが発生します。

3月のことでした。

唐突に膨大なアクセスが起こり、一時なろうのジャンル内ランキング3位にまで浮上します。

なろうで執筆を続けることの運命を決定づけた事件でした。

現在97万アクセスを越えるほどになったのも、この時のことがあってです。

認められなくても、書いていく。

私が10年続けられたのは、歌絵師の成長あってのことでしょう。

 

 受け容れるべきじゃないものを受け容れ、認めるべきものを認めない。

 誰かのマイナスを、僕のプラスみたいに取り込んで、僕は死んでいく。

 また細野さんが笑いかけてくれる。

 僕はそれに、嘘で応える。

 僕が死んでいくのが分かる。

――「僕が死んでいくのが分かる」

 

 彼は私の天使でした。

 彼の言葉に励まされたこと、背中を押されたこと、癒されたこと、数えられないくらいあって、私は彼のおかげで生きることが出来ました。

 でも、私一人の言葉で救えるほど、彼は小さな人ではなかったから。

 彼の歌が増えることは、もうありません。

 人の世は、彼の話を聞いてあげることさえしませんでした。そのことを責める私は、きっとこれから吊し上げられるんでしょう。

――「彼は私の天使でした」

 

 あの頃、二人はもう誰も好きになるまいと思っていた。

 恋の末、絶望した。

 相手に、恋に、自分に。

 幸せは、誰かの見た幻でしかないと思うようになった。

「あの時、伸びをしなかったら、私、ヨウ君と逢えなかったのかな」

 それなのに、人は出逢う。

 恋を知ったこの世界に、生き続けている限り、出逢いはまた訪れる。

――「本当の恋は、午後2時のカフェテリアで。」#25

 

それまで目にしてきたものを自らの糧として、様々な作品を投稿しています。

なろうでの活動は2016年、2017年が最も活発でした。

 

一方この年の7月、YouTubeでゲーム実況を始めます。創作にはほぼ現れない、明るい自分という部分を出せるようになったことで、いつも暗く沈んでばかりもいなくなり、晴れやかな気持ちになることもいくらか増えました。

 

2018年(24歳)

 

ここまで来ると、もうこの前のことです。

 

ツイッターである詩人さんを知ったことから、本格的に詩を書くようになります。

 

そのせいでツイッターに画像を貼ってしまうことも多くなり、以前ほどなろうに作品を投稿することは減りました。

 

f:id:Tohya_Aki:20190114145100p:image

――「雪兎」

 

 生きなければならない、そんな気がしていた。何をも為さず、何をも成さぬ命でありながらも、僕は君と違って生きている。生きることを、世界に望まれている。それはきっと、全てによって成り立っているこの世界が望むことで、その理に踏み込める君であっても、その理に翻弄させられるだけの僕であっても、逆らいようのない、厳命なのだろう。

 僕は芸術家にはなれない。だから果てしない現実が待っている。戻った折には、こっぴどく叱られるのだろう。そんな中で僕は、君を思い出しながら、君の夢を見るに違いない。

――「蜘蛛の糸

 

 ほんの少し、君を思い出して微笑むこと。

 それが、本当の意味で大人になるということだと思う。

 僕は生まれてしまったから。

 最初から選択肢は、一つしかなかったね。

 あの日から今日まで、列車に乗っていたのは僕一人で、どんな道を進むかは全部、僕が決めてきた。

 この世界は、「せい」にしてしまえる何かで溢れている。

 それでも、行った全ては、最後には僕の意思に基づいていた。

 取り消せるはずがないんだ。

 ねえ、どこにだっていやしない神様。

 僕は今日、また一つ選ぶよ。

 聞き届けて、また笑うと良い。

――「交響曲第1番」

 

「東京喰種」の完結と共に、他の作品にも目を向けるようになり、藤夜アキの世界はまた、広がりを見せています。

 

雑誌への投稿も始めましたが、いつか、桜咲く日は訪れるのでしょうか?

 

そして、2019年(25歳)

 

11年目となる今年、私はどのような作品を生み、どのように惑い、どのような答えを見つけていくのでしょうか。

藤夜アキはおそらく、何かまた大きな出逢いの無い限り、藤夜アキでいると思います。

 

今年の目標としては、去年背中を押してもらったことで作成する気になった、紙の本の作成と、仕事との時間の兼ね合いがうまく出来た時にはイベントへの参加を設定しています。

 

なろうへの投稿の再活性化と、さらなる詩の投稿、ツイッターでの知名度向上など、やりたいこと叶えたいことはたくさんあります。

 

具体的には、今後も藤夜アキ NEXT 10 YEARS PROJECTとしてまとめて行きますので、ぜひ、応援のほど、よろしくお願いします!

やさしく考える詩のはじめかた #3.5 とりあえず書いてみよう

 講義は眠くなります。だから僕らは抗議したい、たまには僕らが話す機会が欲しいと。

 


 こんばんは、藤夜アキです。

 今回は#3と#4の合間、#3.5として、私が話すばかりではなく、皆さんにもに一作品書いてもらおうと思います。

 さあ、紙とペンをご用意、ないしお気にのエディタを開いてくださいね

 


 今回のお題は「満員電車」。今まさに私がいるところです。J-POPでも大人気のタイトル、テーマです。今回は身近にありそうなものをテーマに書いてみましょう。

 満員電車とは縁が無いから、そんな方でも構いません。満員電車という概念をまるで知らない人はほとんどいないはずです。本物を見聞きすることの大切さは往々にして言われますが、それだとファンタジーは存在し得ません。誰も火を噴くドラゴンを見たことはないのだ

 


 満員電車、想像してみましょう。

 人がいっぱいいます。あなたは座れましたか?

 


……想像タイムですよ。先へ行く前にゆっくり考えてみてくださいね……

 


 ここで座れた人と、座れなかった人と、座った人と、座らなかった人とで、早速出来てくるものの方向性が変わります。

 座れた人は、そこから車内を見回すでしょうか。それとも、携帯の画面に没入するでしょうか。

 座れなかった人は、バランスを取らないといけません。座れた人たちを羨むこともあるでしょう。

 座った人は、少し後ろめたい気持ちもあったりするかもしれません。当然だ、私も疲れているんだ、と思う人もいるかもですね。

 座らなかった人は、譲るべき人がいたのでしょうか。若者は立っておくべきだ、という主張を抱かれていることもあるでしょう。

 


 私は座れませんでした。ちくせう。

 座れなかった私は、目の前の二人の少年に目が行きました。

 ああ、もちろん、想像でも良いのです。

 幸い乗っているのは十分ほどなので、じゃれあう少年をのんびり見つめる余裕があります。本当、仲が良いですね。距離が近いです。

 その隣の大学生は、小突き合って左右に揺れる二人に嫌そうです。

 反対側の隣には、仲良い二人の友達でしょうか、妙に静かです。置いてけぼりを食らっていますね。

 ああ、そういう時ってあるよなあ。

 


 ここまでをまず書いてみることにします。

 普段はもっと勢いで書きますが、言葉で説明するとこれくらい長くかかりますね。もう満員電車を降りてしまいましたよ。

 


 ……さあ、皆さんも真っ白なカンバスに向かってみて……

 

 

 

 人に満ちた、午後四時の銀の箱。

 疲れの満ちたそこは、さながら小さな時限爆弾。

 裏が出れば不発弾、そんなコイントス

 小突き合う二人の少年が、世界で一番幸福な。

 周りの迷惑、省みず。それがかえって、真実らしい。

 

 

 

 とりあえず、思いついた言葉を並べてみます。

 列車を銀の箱と形容したのは良いのですが、列車だとすぐには分かりませんね。それを良しとするかは、もう一人の自分に聞いてみましょう。千年パズル組まなきゃ

 


 さあ、自分と向き合う時間。

 え? 主人格しかいない?

 違いますよ、詩こそがもう一人の自分ですから。

 


……明鏡止水。さながら剣士の如く……

 

 

 

 人に満ちた午後四時。銀の箱は風を切る。

 疲れの満ちたそこは、さながら小さな爆弾だ。

 何も無ければ不発弾、そんな賭け事みたい。

 小突き合う二人の少年は、世界で一番幸福な。

 周りの迷惑、省みず。それがかえって、本物らしい。

 

 

 

 銀の箱で止めると、やはり列車のようだとは気付いてもらえなさそうです。タイトルが満員電車なので、他にないんですが。江ノ電しか見たことない人には、何が何だかですよね。

 ただ、電車だと言い切るのは、ちょっと嫌な気分だったので(詩人だから、とか言いはじめると、いつか普通に書きたいと感じた時、自分の心に嘘を吐かなきゃならなくなりますから、猫のように、秋の空のように、今日は嫌なの、と昨日はフレンチを食べたがっていた恋人が、今日はイタリアンを食べたがるように言ってやるのです)、走らせてみました。フオーン。

 


 小さな時限爆弾。それだといつか爆発しそうです。したら困りますね。私も肉片です。ここは単なる爆弾にしました。

 コイントス。確率は同様に確からしい、とよく断りが入れてありますよね、コイントスだと二回に一回、私も肉片です(本当にそうならソシャゲのガチャはどんなに楽なことか)。裏の方が出やすい魔法のコイン、を想定してみましたが、言葉にするのはくどくなりそうです。ここは賭け事、とぼかしておきましょう。

 


 二人の少年「が」を二人の少年「は」に変えました。言語学が専門でもないかぎり、微妙なニュアンスを分かっていれば良いと思います。今回はデミグラスよりも和風おろしの方が合う気がしました。

 


 真実と本物と。意味は似たようなものですが、二人の「友愛の情」を何と形容すべきかは、「本物」の方が俗っぽくて、似合う気がしますね。

 常に気取らなくて良いのです。牛丼屋にパーティードレスで行かないのです。

 


 さて、満員電車を降りてしまった私は、ここからは出来た詩文と見つめ合います。もう少し色々付けてみたいところです。

 その時思ったことを書くだけでは、それ即ち即興詩人なり。私たちが切り取ったシーンを、私たちは文章の形に仕上げたわけですが、今度は逆にそこからシーンの方を思い浮かべてみるのです。

 詩の形になった時点で、それがどれほど写実に富んでいようと、現実ではなくなっています。

 さあ、今度は虚構を現実に仕立てるのです。

 私が先日、ある所に投稿したものは、100%の虚構でした。どこにもない世界について書いた後、出来上がった世界を私は旅してみました。あの世界からは、さらに何作品も出来ることでしょう。

 


 分かりにくいですね。

 つまり、自分の作品を読んで、そこから何か思いついたら、手を加えてあげましょう、ということです。もちろん、そのままが良い、と思ったら、それで完成です。清書に入りましょう。

 

 

 

 ああ、もし起爆したとして。

 奇跡的に生き残る人がいたとしたら。

 僕には答えが分かった気がする。

 

 

 

 車内は一触即発の空間、そこから爆弾と例えた私。

 じゃあ、爆発させてみましょう(※この番組はフィクションです。)。そうして考えを巡らせた結果、奇跡的に生存者がいたのです。

 ああ、繋がりましたね。

 どうして習作ばかり、秀作と思えるものになるのでしょう(他人の評価より、まずは自己評価よ)。

 


 さて、清書タイムです。

 


……みんなもいっしょにー! せいしょー!たーいむ!……

 

 

 

 人に満ちた午後四時。銀の箱は風を切る。

 


 疲れの満ちたそこは、さながら小さな爆弾だ。

 何も無ければ不発弾、そんな賭け事みたい。

 


 小突き合う二人の少年は、世界で一番幸福な。

 周りの迷惑、省みず。それがかえって、本物らしい。

 


 ああ、もし起爆したとして。

 奇跡的に生き残る人がいたとしたら。

 


 僕には答えが分かった気がする。

 

 

 

 うんうん、良い出来です。

 


 ここで、え? 詩の書き方は? 結局分からなかったけど? という方は、詩を大層な料理だと思っていませんか?

 卵をといて、フライパンに流して、程よく熱を通せば、それは十分に料理と呼べますよね。盛り方とか、味付けとか、そういうことを意識して整えていくかが、より料理と呼ぶにふさわしいかの境界を切り分けていく指標になるだけの話で。

 私たちは詩を書きはじめるのに十分なことばを持っています

 私みたいに、これじゃ人には見せられないな、なんて悩むのは、ずっと後で良いんです。まあ私、滅多にそんな悩み抱きませんけども。

 どうだ、飯食ってくだろ? ってくらい強引で良いんです。

 


 もし差し支えなければ、コメント欄にでも、あるいはTwitterの方ででも、あなたの書いた詩を見せていただけたらと思います。(非公開コメントが出来た……はず)

 添削できるほど仕上がった詩人ではありませんが、あなたの詩の良い点くらいは、見つけることが出来ると思いますから。

 


 それでは、次回、第四回の講義でお待ちしています。

やさしく考える詩のはじめかた #3 ことばを探す旅に出る

 筆を執ることだけは億劫にならない、だけどiPhoneでしか書かないから筆はおろかペンだって持ちやしない、どうも、藤夜アキです。

 


 このシリーズも三回目。ありがたいお言葉を詩作仲間の方にいただいたこともあって、書く気力が湧いてきました(サボる創作家の何割かは、応援してやるだけで簡単に走りだすはずです。さあ応援だ)。

 


 そしてこれが掲載されるのは書いてから三カ月後になってのことであった。

 


 今回はことばの選び方、と前回には言っていたものですが、いわゆる、ひらたーく固く言うところの「語彙力」のお話です(彙って漢字は手書きで書けない)。

 よく言います。「語彙力が足りない。ヤバい(語彙力)」と。あるいは、「あの人は語彙力の塊だ」とか。

 語彙力って、広辞苑大辞林が頭の中に入っていること、ではないと思います、私は。でも入れてはみたい。

 


 例えば、

 

 

 驟雨の中、失踪した心。

 浅薄なセンチメンタリズムに踊らされ、私は郷里を捨てた。

 あゝ、雨よ、白い雨よ。

 願わくば、その烈しさで私を真新しくしておくれ。

 


 こんな詩を書いてみましたが、これはわざとらしく言葉を詰め込んでやった作品です。普段のことば選びのルールとは変えています。書いててあんまり楽しくない。

 


 語彙力と聞くと一般的に想像されるのは、漢語が当たるかと思います

 驟雨とはにわか雨のこと。日常では聞かないことばですね。夕立と書けば、誰だって分かりますね。でも、夕立じゃかっこがつかないし、みたいに思った時、驟雨を使ってみると効果があるのです。

 ちなみに、「白い雨」は、同じくにわか雨を示す白雨を、和語の形に私が書き換えたものです。驟雨が分かった人になら分かるだろう、手の込んだことをしてみました。

 センチメンタリズムは、いわゆる横文字。詳しくは後で述べます。

 


 失踪、浅薄、郷里。嫌というほど詰め込んでやりました。

 これはことばの持つイメージの問題ですが、漢語を多用すると、どうしても硬い印象になりますインテリぶってんじゃねえぞ! ってシャンデリアが飛んできます

 ですから、語彙力という言葉に呪われていると、時として堅苦しい人になります。

 そもそも、漢語は明治時代以降に爆発的に増殖したもので(種類と使用頻度の話です。もちろんお隣の国の言葉ですから、存在自体は昔からありますよね)、現代人が文豪の作品ばかり目にするものですから、さも語彙力といえば漢語のような印象を抱くわけです。

 というか、用例が一作品しかないものもあるわけで、当時の漢語ブームは私は嫌いです。難しけりゃ良いってもんじゃない。かっこよくて好きだけど(矛盾)。

 


 後、この漢語の多用には、致命的な欠点があります。

 読み手が意味を分かってくれないと、意味の分からない詩にしかならない点です。

 詩は得てして意味不明なものですが、ひとつひとつの言葉は分かるけれど、それらがどう繋がるのかが分からないのと、最初から何が書いてあるのか分からないのとでは違います。

 中国語の文を読んでる感覚にさせてしまったら、それは詩人の自己満足でおしまいです(自己満足、大事ですけど)。

 


 難しい漢語を使うな、っていうことではありません。辞書を引かせまくるな、ということです。キーポイントで、あまり知られていないだろうことばを使うのは、とても重要なことなんです。

 


 あゝ、この人はどうしてこのことばを選んだろう?

 


 そう思わせたら勝ちだと思います。

 だからこそ、必殺技のように使うべきです。

 毎回見開きドーン! な漫画だと、インパクトにかけますし、何よりお話が進みません。


 もちろん、提出先が全員知識の塊だったら別です。それでも、「私の語彙力は53万です」なんてひけらかしたって、良いことないと思います。というかそんな相手には金髪の超人がお仕置きに来ます

 


 私の好きなアーティストの歌詞を見てみても、確かに難しいことばはあります。でも、大筋は義務教育を終えていたら分かるものが中心です。

 分かるものの中に、よく分からないものが混ざっている。これって何だ? 調べてみよう……なるほど、そうだったのか、こんなことばを使うなんてさすがだなぁ、スキ♡

 ってなるんですよ。

 


 さて、ここまで漢語批判をとうとうと述べてきました。もともと漢語が好きな人で、よく硬いと言われるので、色々見つめた結果行き着いた、私なりの答えを示してみた感じです。

 

 次は、「白い雨」のようなパターンについて説明します。

 


 これはいわゆる「造語」というものに当たるはずです。白雨は既存のものです。辞書を引いても出てきます。しかし、「あゝ、雨よ、白雨よ」とすると、「あめ」「ハクウ」と訓読みと音読みが混ざってしまいます。今回はそれが嫌だったんです。

 そこで、白雨を「白い雨」としてみました。

 和歌においては「白露」を「ハクロ」ではなく「しらつゆ」と読ませます。これは和歌が和語の文学だから当たり前ですが、本来「しらつゆ」という言い回しは日本になかったようで、漢詩に見える表現を借り受け、美しい日本の読み方を生み出したらしいのです。

 まあ細かい語学の話は偉い教授センセの論文でも読んでもらえば良いので、私が言いたいのは、ことばは自分でも作れる、ということです。カワイイが作れるのと一緒です。違うか

 


 日本語は複合語をすぐに作れてしまいます。選挙カーとかそうですよね。LI○Eスタンプもそうでしょう。接着剤なしでくっつくので、小さなお子様にも安心。トマト爆弾、ほら、スペインのお祭りで投げられるやつ。

 ただこれも考えもので、造語は嫌いな人にはとても嫌われます。辞書第一主義というのでしょうか、公式が好きな人には蕁麻疹が出るほど辛いようです。

 でもことばって辞書が後に決まってますから、権威にすがりたい人たちなんですよね、そういうのって。時にロックに反骨精神を見せていかねばならない芸術家は、権威に屈してばかりではいけません。

 でも責められるのには弱いのよ……。

 


 新語というのも、私はあまり使いませんが、詩ではかなりの力を発揮してくれます。やばたにえん(早速の死語)。

 主に今風の、若者の、現代の表現に使えますが、大学で「高校の校長の物まね」をしてもウケないのと同じで、ある程度知られていないとずっこけます。

 目新しさ、奇抜さは目を惹いて良いですが、悪目立ちしてしまわないよう、少し保守的な目線を用意して読み返してみるのも大事なことです。ヤ○ババーン。

 


 ことばとは実に力強いものです。

 母親が子に感じるものも、兄が弟に感じるものも、担任が生徒に感じるものも、カノジョがカレシに感じるものも、ストーカーがターゲットに感じるものも、ファンがアイドルに感じるものも、太郎君がペットのポチに感じるものも、主が我らに感じるものも、「愛」です。

 母性から来るのか、家族だから抱くのか、本能がそうさせるのか、倒錯してそうなったのか、応援したいのか、癒しを得られるからなのか、超人的なそれなのか、そこを表せることばを探す旅に、私たちは度々船出をしなければなりません。

 ただ一言、「愛」で良い時もあるのです。

 けれど、私たちは2018年を生きているので、794年や1333年、1789年に言われてしまったことは、私のオリジナルだ、と言えないのです。仕方がありませんから、私たちのことばでもって、どんな「愛」か伝えなければいけないのです。

 


 随分長くなっていますが、最後に横文字について説明して、今回の最後とします。

 


 コラボレーション、ファンタジー、ラビリンス、アナーキズム、アポロジーキュビズム

 何だか目がチカチカしますね。横文字は人によって得意不得意があり、世界史を学んだことのある人は、中国の皇帝の名前を覚えるのが得意な人(洪武帝じゃん! 乾隆帝じゃん! わっほい!)とローマの皇帝の名前を覚えるのが得意な人(マルクス・アウレリウス・アントニヌスだー! コンスタンティヌス11世だー! ウオオオ!)とに分かれた記憶があるかと思います。え? ない?

 頭にさらさら文字が入るかどうか、ということらしく、横文字の多用は若者であっても厭う人は一定います。

 私たち日本人は、欧米の言葉を漢語に翻訳して、受け止めやすくする変換をしばしば行いますから、上の例ならセンチメンタリズムは感傷主義(直訳すれば良いってものでもないですが)とどちらが合うか考えてみても良いと思います。

 ただ、これも味の問題ですから、目玉焼きはソースをかけるのか醤油をかけるのか分かれるみたいに、皆様のお好みで変えてみてください。

 


 あ、いけない、「どうやって語彙力を増やしたら良いのよ!」という、最も抱かれがちな質問に私なりの解答を述べるのを忘れていました!

 


「本を読め」とか言いません。私は。

 読書が好きな人ほど、本を読め本を読めと言います。本は確かに大事です。でも、本にはことばが多すぎます。語彙力を身に付けようにも、もう次から次から出てきて、いちいちメモっていたら本を読むのが逆に嫌になります。

「ことばを探す旅に出てください」と言います。私は。

 ことばは私たちの身の回りに溢れています。電車の中吊り広告、ウェブサイト、お菓子のパッケージ、ゲームのクエスト名、女子高生の会話、新聞の一面、機械の説明書。

 何だって良いんです。すぐさま使えなくて良いんです。「あ、いいな」を繰り返す内、いつかふいに使える瞬間が来ます。

 映画を見たり、ドラマを見たり、音楽を聞いたり、ことばが文字として出てこないものを鑑賞するのも、意識せずに語彙力を増やせる機会だと思います。

 


 嫌いになってしまうような努力はしないでください。

 好きになる、楽しくなる努力をしてください。

 


 楽しんで詩を書きたいですよね。

 


 ということで、次回は今回長くなりすぎるのを厭って書かなかった、残りの分をまとめていきたいと思います。

 次回もお付き合いくださると幸いです。

私の詩と2018

 今年は詩人になろうと決意した年でした。もともと小説家になりたいと願っている人だから、これはこれで寄り道でしかないとして。でも、どんな道を歩んでも、文学を志すなら全部繋がっているから、悪くはないだろうな、って気がします。

 


 九月には公募の最終選考には進めて、今年としては十分――何らか賞が欲しかったな。

 雑誌への投稿は今月で6ヶ月。24ヶ月までは心を折らずに続けると決めたから、もう1/4なのかまだ1/4なのか。

 


 今年を振り返るなら、去年転機をくれた東京喰種が完結して、一つ拠り所を失った気がしています。喰種から知ったamazarashiが残っているなど、自分の中に遺ったものはたくさんあるけれど。最近は喰種由来の思考がやや減って、少し消化したように感じます。

 


 一方で、数年ぶりに見返した輪るピングドラムにインスピレーションを得たり、Deemoの楽曲やクラシックに着想を得たこともあったり、種々の新しさに出逢えた年でした。

 


 詩を書く方と繋がるようになったことも、去年までとは違う点です。小説を書く方とは違って、ツイッターを中心に作品を上げておられる方が多いので、日々が刺激と驚きの連続です。

 


 そのおかげで、詩を一枚の画像にして投稿するスタイルを確立することが出来ました。1920px×1080pxの形で固定するようになったのは、別の活動の成果かもしれません。そろそろあっちもやらないと怒られます。

 


 その発展として、自分で絵を描いて、そこから新しい詩が生まれるという発見もありました。何だか屏風歌みたいですね。

 


 これまで何度か自身の作品を集成することはありましたが、今年は特に力を入れて取り組んだ年でもありました。ツイッター発の『呟々集』『わがまゝ』をはじめ、数年前のブログに投稿しっぱなしの作品も回収中です。当時にしか抱けない感情たちを、今の感情がリミックスすることで生まれた作品もあります。振り向けられる過去が積み上がってきたことを、幸せに感じています。

 


 今年も残すところ後半分。いったいどんな作品が生まれるのか、今の自分には分からないところも、詩の魅力ですね。

 来年の目標は、文学を志してから十年の節目の年なので、いよいよ文壇に立つことです。何らかの形で、文学作品が公開されている場面に姿を現せられることを願います。

 


 今年は、もう一度前を向いた年。

 来年が、どうか夢に報いれる年になりますように。